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フィリップ・K・ディック アンンドロイドは電気羊の夢を見るか? [日記(2008)]

アンドロイドは電気羊の夢を見るか? (ハヤカワ文庫 SF (229))

アンドロイドは電気羊の夢を見るか? (ハヤカワ文庫 SF (229))

  • 作者: フィリップ・K・ディック
  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 1977/03/01
  • メディア: 文庫
 映画『ブレードランナー』の原作です。
 物語の背景は、最終核戦争の後、人類は、死の灰に汚染された地球に残留する人々と、惑星植民地に移住した人々に分かれて暮らしている、という世界です。驟雨の様に死の灰の降る北カリフォルニアを舞台に、地球に密航したアンドロイドを狩る賞金稼ぎとアンドロイドの戦いの物語です。
 主人公は、サンフランシスコ警察に所属し、地球に密航したアンドロイドを狩る『バウンティン・ハンター』のリック・ディッカード。アンドロイドを廃棄処理する賞金稼ぎと言うわけです。作者は『ネクサス6型』という2兆の素子(脳細胞)を持った人間と拮抗する能力を持ったアンドロイドを創造します。この仕事は簡単ではなく、人間世界に紛れ込んだ人間と全く同じ姿と能力を持ったアンドロイドを見分けなければなりません。何をもってアンドロイドと人間を区別するのかが一番の問題です。アンドロイドと人間はどう違うのか、人間が人間たる所以は何なのかを問うところに物語の主題があります。【電気羊の夢】
 地球に残った人々の間では、動物を飼うことがステータスとなっています。ウサギよりも羊、羊よりも馬と大型になるほどステータスが上がると云うわけです。物語の冒頭で、本物の動物を飼えないディッカーは電気羊を飼っていますが、後にアンドロイドを3人始末した賞金で山羊を飼うようになります。これは、
アンドロイド<電気羊<山羊<人間
という関係の象徴でしょう。電気羊は人間の愛玩の対象ですが、アンドロイドは『廃棄処理』の対象だからです。
題名ともなっている『アンンドロイドは電気羊の夢を見るか?』の電気羊です。人間は羊の夢を見るが、機械であるアンドロイドは電気羊の夢を見るか?と理解していたのですが、この題名は『電気羊以下の価値しかないアンドロイドは、せめて電気羊になりたいというはかない夢を見るか?』という理解も成り立つことに気づきました。
 何故なら、アンドロイドは火星で人間の奴隷としての生活から脱出し、よりよい生活を『夢』みて地球へ逃亡してくるのですから。地球で、せめて『電気羊』になりたいという夢を描いて。

【感情移入】
 このアンドロイドと人間を見分ける方法として、作者が提出するのが『感情移入度テスト』です。人間は相手に同情、哀れみ、共感などの感情移入を行うが、アンドロイドはこの感情移入が出来ないというのです。例えば、
『牡蠣を食べている時に、主菜としてライス詰めの犬の丸焼きが出される・・・』
という質問に対して、アンドロイドの反応は人間に比べて鈍い訳です。この反応を計測してアンドロイドと人間を見分けます。この感情移入の欠如こそが、アンドロイド宿命でもあり、抹殺の理由でもあります。
  『感情移入』とは何か?『ライス詰めの犬の丸焼き』など現実に無いわけです。これに反応すると云うことは、ライス詰めの鶏料理と丸焼きと愛玩動物の犬からある残酷さを想像する能力のことででしょう。フィリップ・K・ディックがこの物語で一貫して主張しているテーマは『感情移入』『共感』すなわち『想像力』です。この『感情移入』が仮託された人物こそ特殊者J・R・イジドアであり、キリストを思わせるウィルバー・マーサーでしょうか。
 物語冒頭で、ディッカードは『電気羊』を飼っています。いかに精巧であろうが羊は『偽物』であり、愛玩は疑似的行為です。『疑似的行為』がディッカードの中で成り立つことこそが、ディッカードが想像力を持った人間であることの証拠なのでしょう。この『物』に対して成り立つ偏愛は、繰り返して語られます。ラストで、ディッカードはオレゴンの砂漠で絶滅した筈のヒキガエルを見つけますが、彼の妻イーランによって模造品『電気ヒキガエル』であることが見破られます。
しかし、イーランは夫のために『電気ヒキガエル』を飼おうと決め餌を注文します、

『では、人工小昆虫の詰め合わせはいかがでしょう?
お願いするわ、イーランはいった。
完全に動いてもらいたいから。うちの主人はそれに夢中なのよ』

しかし極めつけは、ディッカードとレイチェルの愛でしょうね。

 イジドア、ウィルバー・マーサー、バスター・フレンドリーなどメタファーに満ちた人物や、ペンフィールド情調オルガンなどの不思議な機械が登場し、隠喩に満ち満ちた物語です。これこそファンタジーかもしれません。

【映画・ブレードランナー について】
 ブレードランナーを観て原作を読んだ訳ですが、映画と小説は全くの別物だと思います。監督・リドリー・スコットはフィリップ・K・ディックの枠組みを借りて、アンドロイドの宿命を(乾いた映像ですが、結構叙情的に)描いたのです。イジドアやウィルバー・マーサーは登場せず、レイチェルとロイ・バッティが重要な役どころとして登場する所以です。しかし、原作のディッカードも映画のディッカードも、ともに『Blade Runner』であることには変わりはありません。原作は、妻であるイーランによって幕を閉じますが、映画ではアンドロイドであるレイチェルが幕を引きます。この辺りが、小説と映画のメディアとしての違いであり、フィリップ・K・ディックとリドリー・スコットの違いなのでしょうね。

小説は★★★ですが、映画と併せて読むと★★★★★かもしれません。その逆も然りです。

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