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草柳大蔵 実録・満鉄調査部(上) [日記(2008)]


実録満鉄調査部〈上〉 (1983年)

実録満鉄調査部〈上〉 (1983年)

  • 作者: 草柳 大蔵
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞社
  • 発売日: 1983/02
  • メディア: -


草柳大蔵 実録・満鉄調査部(上)
 満鉄の調査研究機関として、明治40年(1907年)に設立され昭和20年(1943年)に終焉を迎えました。最盛期の昭和13年にはスタッフ2千余名を抱え、本社の大連のほか上海、南京、東京、ニューヨーク、パリに事務所を持ち、現在の貨幣価値に換算して年間38億円の調査費を持った巨大シンクタンクです。

『満鉄本社には600台のタイプライターがうなりをあげ、電話はダイヤル即時通話であり、大豆の集荷数量・運送距離・運賃はIBMのパンチカードシステムで処理され、特急「あじあ号」は6両編成で営業速度130キロをマークしていた。しかも冷暖房つきである。』

敗戦の後この知的集団が日本の各組織に散って、戦後の復興を支えたことは有名な話です。佐野眞一が『戦後の日本は満州の相似型』だと書いていますが、彼らは戦後の日本にもうひとつの満州を作ったのかもしれません。

 では、満鉄調査部を擁した満鉄・南満州鉄道株式会社は何なのかです。日露戦争の勝利でロシアから取り上げた鉄道と炭鉱の経営から出発した日本の植民地経営の為の国策遂行会社です。ポーツマス条約で日本は鉄道沿線の行政権を持つため、満鉄はその付属地において、鉄道経営だけではなく税徴収権を持ち、発電所、病院、学校を作るという行政機関の性格も持っています。満州の地にもう一つの日本を作る、これが満鉄の使命であり満州の権益を守る軍事力が関東軍です。満鉄、関東軍、それをコントロールする日本国政府、この三者の思惑と確執の中で生まれたのが満州国であり、その満州国をデザインし裏で支えたのが『満鉄調査部』という構図です。

下巻に続く 著者はこの満鉄調査部を4部構成で描きます。その誕生と遺伝子を描いた『原野の思想』、満州国誕生の思想的バックボーンを画策した『熱砂の思想』、権力との軋轢を描いた『抗争の思想』、満州の原野に沈む落日の様に満州建国に最後の光芒を放つ第4部『落暉の思想』です。

【満鉄調査部と後藤新平】
 満鉄調査部の生みの親である満鉄初代総裁・後藤新平が後の調査部の性格をすべて用意した、と云ってもいいようです。『大風呂敷』の異名で、台湾総督府民政長官から満鉄初代総裁後に就任し、のち関東大震災後の東京復興を画し、内務、外務大臣を務めた希代の民政家は、満州(鉄道=植民地)経営の要を現地主義に置き、満州の地誌風俗調査の目的に『調査部』を設立します。植民地に宗主国日本の制度習慣を移植するのではなく、『植民地政策のことは、つまり文装的武備で王道の旗を以て覇術を行』おうとします。

『植民地政策は・・・其の弱点に乗ずべき所のもの・・・人の迷い起こった所、窮した所が其の弱点である。宗教の如き(は)既にそうである。その迷いに乗ずるのである』

 弱点に乗ずるために調査研究せよ、というわけです。『乗ずる』と云うと語弊がありますが、宗主国の制度を押しつけるのではなく『旧慣調査』をして『旧慣尊重』で臨むのですから、後に朝鮮でやった創氏改名などとは大違いです。この『旧慣調査』が満鉄調査部の源となったようです。

 満鉄調査部の面白いのは、北一輝と並ぶ右翼の大物・大川周明とマルクス主義者の佐野学が同じように調査部員として在籍していることです。新人会(日本共産党の東大細胞)の転向組、はては国内を閉め出された社会主義者が大挙してなだれ込んだともいいます。ゾルゲ事件に関わり刑死した尾崎秀実も調査部に在籍していました。右翼であれ左翼であれ、合わせ飲む大陸的鷹揚さが調査部の身上であった様です。大陸的鷹揚さというより、五族共和、満蒙の地に新しい国家を作ると云う理想掲げる彼らにとって、日本国内の右だ左だという論議はコップの中の嵐の様に思えたのでしょう。昭和10年においてさえ、マルクス主義の手法を使った満州の経済社会も構造分析が行われ、関東軍に提出されているのです。これは、体制を守ることが命題である日本と、体制を作ることが優先の満州の差でしょうか。昭和10年は満州国が成立して3年で、国家建設の為には使える物はマルクス主義でも良かったのでしょう。
タグ:満州
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