読書 デイヴィッド・グターソン 殺人容疑 [日記(2011)]
映画『ヒマラヤ杉に降る雪』を見て映像とストーリーの静謐感に感心し、評判のいい原作『殺人容疑』を読んでみました。映画の項でも書きましたが、WWⅡの米国の日系人排斥運動に起因する1954年の殺人事件の謎を解くミステリー、法廷ドラマです。
映画では、殺人事件の謎解きを背景にイシュマエルとハツエの過去に分け入り、アメリカ人の青年と日系人の娘のすれ違いの愛を描いています。原作を読んでみると映画は原作に忠実に作られていることが分かります。原作はもう少し違っていて、イシュマエル、ハツエを取り巻く登場人物ひとりひとりの陰影がくっきりと描かれています。
映画では、殺人事件の謎解きを背景にイシュマエルとハツエの過去に分け入り、アメリカ人の青年と日系人の娘のすれ違いの愛を描いています。原作を読んでみると映画は原作に忠実に作られていることが分かります。原作はもう少し違っていて、イシュマエル、ハツエを取り巻く登場人物ひとりひとりの陰影がくっきりと描かれています。
人種の坩堝アメリカという国を斜めから見ると、イギリスを見限ったWASPがまずやって来て、次いで飢饉から逃げ出したアイルランド人が、ドイツ人がイタリア人がやって来て、古い移民が新しい移民を抑圧する歴史でもあります。新教、旧教の別はありますが、いずれもキリスト教文化圏の人種。碧眼紅毛と一括りにすることも出来るでしょう。そこへ、宗教も文化も容貌も事にする東洋人種が現れ、地を這うような勤勉さでアメリカに浸透します。
真珠湾の奇襲によって日米は戦端を開き、アメリカは自国民である日系人(一世は米国籍はない)を財産を放棄させられ強制収容所に隔離されます。敵性外国人の隔離はドイツ人イタリア人をも対象としていましたが、両国人は解放され、日本人は1945年まで解放されなかった様です。『殺人容疑』にはこの日系人に対する偏見と差別される側の不信が根底にあると思われます。この偏見と被差別がイシュマエルとハツエの関係を裂き、殺人『事件』を生み出したのです。
しかし、一方、ずっと前から知っていたあの少年と一緒にヒマラヤ杉の診の中の苔の上であたしが感じた本能が愛ではないとしたら、愛とはなんだろう?イシュマエルは、ここで生まれ、この森、この海岸で育った少年だ、この森のにおいのする少年だ。人間を作り上げている本質的なものが血ではなくて、土地だとしたら、どこに住んでいるかが本当は重要だとしたら、イシュマエルは、日本のなににも劣らず、あたしの一部として、あたしの心の中に存在している。それが最も素朴な、最も純粋な形の愛であるのを、あたしは知っている。
『人間を作り上げている本質的なもの』が血(人種)ではないこと、ふたりを結びつけるものが、ふたりが生まれ過ごした土地サン・ピエドロにあることを認識しながら、ハツエは日系人の強制収容という体験と、母親の白人に対する偏見によって『愛していなかった』という手紙をイシュマエルに書きます。
ヒマラヤ杉の洞に生える苔の匂い、繊毛の手触り、タイガを思わせる北米の針葉樹林帯にしんしんと降り積もる雪、音を吸収されて静かに佇む街。そこで繰り広げられる静かな人間の愛憎劇は、読む者の心を打ちます。
1996年の『このミス』で12位だそうですが、(髙村薫風に言うなら)作者のデイヴィッド・グターソンは、『私はミステリを書いたつもりはない』と言いそうです。
日系人の強制収容につぃては、アメリカは1976年にその非を公式に認め、1988年に謝罪し、1992年より賠償金の支払いが行われています。
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