F.W.ディーキン、G.R.ストーリィ ゾルゲ追跡(2003 岩波現代文庫) [日記(2013)]
有名なスパイ、ゾルゲです。著者のふたりはオックスフォードの歴史学者のようですが、歴史書というよりゾルゲ、ゾルゲ事件に関するノンフィクションです。諜報を英語ではインテリジェンスと言いますが、本書を読むと、諜報=intelligence(知性、情報)であることがよく分かります。
リヒャルト・ゾルゲは1933年~1941年にわたる8年間、ドイツの新聞社特派員として日本に潜入し、諜報団を組織し赤軍四部(情報部門)に日本の政治・軍事状況を送り続けたソ連スパイです(ドイツとの二重スパイ説もあります)。
ゾルゲは、1)独ソ戦(バルバロッサ作戦)の開戦日を正確に予測し、2)政府中枢部の情報を元に、日本がソ連と戦争する意志のないことを見抜き、本国に伝えます。スパイ、ゾルゲの功績はこの2点に尽きると思われます。
【ドイツ大使館への浸透】
ゾルゲはドイツ大使オット及び駐在武官の信任を得て大使館に深く浸透し、大使館員同様にドイツ本国から届く情報を知り得る立場となります。
ゾルゲのドイツ大使館への浸透がどんなものであったかです。1941年5月、ゾルゲはオットの依頼で中国に行くのですが、
ゾルゲは大使館の伝書使として、日本外務省発行の特別旅券を持ち、上海駐在のドイツ総領事宛の公文書を携えて旅に出た。彼は・・・日本総領事、陸海軍高級将校、「特務機関」の長にも会った。・・・ゾルゲは、オット大使に大使に報告を送り、大使は「それに手を加えないでドイツ政府に転送した」・・・東京に帰ると、ゾルゲは同じ資料をモスクワに打電した。
スパイ・ゾルゲの真骨頂です。一新聞記者が、ここまで大使館の信頼を得ることが出来たのは、尾崎秀実、宮城与徳をはじめとする情報ネットワークを持ち、大使館に勝る情報収集能力、分析能力を持っていたからに他なりません。オット大使は、2.26事件についての報告など、ゾルゲの分析をそのまま本国に送っていたようです。
この立場を利用し、ゾルゲはバルバロッサ作戦の開始が6月22日である情報を駐在武官から聞き出し、モスクワに打電します。
【尾崎秀実】
続いて1941年6月27日にモスクワより指令が入ります。
我が国と独ソ戦争について、日本政府がいかなる決定を行ったかかを、知らせよ。またわが国境方面への軍隊の移動についても知らせ。
この指令に全面的に答えたのが、ゾルゲの大陸以来の盟友で時の近衛内閣の嘱託であった尾崎秀実です。
この質問事項に答えて集められた資料は、諜報活動の歴史の上で一つ傑出した業績であった。
と著者は書いています。諜報が、一国の政治を動かした(世界史を動かした)希有な事例です。
尾崎秀実は、中国問題の専門家として近衛内閣の「ブレーントラスト」の一員となり、政府中枢の情報を知り得る立場にあります。尾崎が入手した7/2の御前会議で決定された「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」の情報を元に、ゾルゲと尾崎は日本軍の南方進出、独ソ戦への不介入の結論を出します。この情報によって、ソ連は安心して20師団を極東からモスクワに移動し独ソ戦に勝利します。
ゾルゲは捕まった後に、自分の諜報活動で、非合法の手段で情報を得たことは無く、相手が進んで話してくれる情報だけに頼った活動であると語っています。ここには、スパイ小説や映画とは程遠いインテリジェンスの世界があります。
そして、このゾルゲ及びゾルゲ諜報団がモスクワからどのように評価され扱われたかです。バルバロッサ作戦の開始日を打電した件について、無線係マックス・クラウゼンの言葉をこう紹介しています、
われわれは毎時、新しい情報、受領確認、そして何にもまして、ソ連政府の外交的・軍事的反応のニュースを待っていた。われわれは、その通信の重要性を知っていた。しかし、われわれは返信を遂に受け取らなかった。本当に戦争(独ソ戦)が起こった時、リヒアルト(ゾルゲ)は激怒した。彼は、頭をかしげて尋ねた。「なぜスターリンは、それに対する行動をとらなかったのか」と。
ゾルゲ自身は、後に日本の取調官に、こう語っている。
モウスコウ中央部は深甚の感謝を表す無線通信を送ってきた。これは全く例のないことであった。
ゾルゲの見栄で、スパイも人の子です。また、取調官からバルバロッサ作戦でのモスクワの抵抗とドイツ軍の苦戦を聞き、自分達の努力が独ソ戦に生かされたことを知って、ゾルゲは小躍りしたと言います。勢いを取り戻した赤軍は、11月7日の革命記念日に恒例のスターリン演説と軍事パレードを敢行しましたが、皮肉にもその日はゾルゲと尾崎の絞首刑の日でもありました。
【余談】
ゾルゲとソ連赤軍四部との情報は、マックス・クラウゼンの無線によってモスクワに送られますが、クラウゼンは無線係と共に諜報団の会計もやっていたようです。赤軍から来る活動資金が徐々に減らされ、メンバーは自活の比重が高まります。ゾルゲはフランクフルター・ツァイトゥング社の特派員、ヴケリッチは仏アヴァス通信社の特派員、クラウゼンは青写真コピー機製作会社「クラウゼン商会」の経営、宮城与徳は画家とそれぞれの職業から得る収入で生活していたようです。尾崎秀実は、朝日新聞記者、内閣の嘱託、満鉄調査部嘱託ですから、特別な旅行の他はゾルゲから活動費を支給されていなかったようです。それぞれ世界の共産化を理想に掲げるコミンテルンのメンバーですから、手弁当も厭わなかったのでしょう。クラウゼンの事業は利益を生み出していたようで、1940年末には、利益の一部を活動費に回せという司令が赤軍から出ています。クラウゼンは活動費減額や事業の利益のピンハネに嫌気が差して、無線通信をサボタージュしていたようです。スパイは、偽装のために職業を持つことは必要でしょうが、共産主義の理想にすがってスパイに生活費まで稼がせるとは、情けない話しです。
それにしても、共産主義という理想のために、 ドイツ人のゾルゲは(ナチス・ドイツとは言え)祖国を裏り、尾崎は売国奴の汚名を着て絞首台に登り、宮城は獄死したわけです。そして彼等が身を捧げた共産主義国家・ソ連では、1937、38年だけでも百数十万人の人々が反逆罪で逮捕され、70万人が処刑されるという「粛正」が行われています。
1957年の出版という古い本ですが、ゾルゲ事件を俯瞰するにはちょうどいい本だと思われます(但し絶版)。
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