SSブログ

村上龍 イン ザ・ミソスープ(1997) [日記(2013)]

イン ザ・ミソスープ (幻冬舎文庫)
 村上龍は、破綻した日本を北朝鮮が侵略するという近未来小説『半島を出よ』や『五分後の世界』『歌うクジラ』などを読みましたが、同じ村上でも「ハルキ」と違って、時代を取り込んで悪夢を紡ぎだすというところが気に入っています。

 『イン・ザ・ミソスープ』は、師走の3日間、性風俗店のガイドであるケンジが、米国人のフランクと新宿歌舞伎町の歓楽街を彷徨う物語です。ケンジもフランクもありふれた名前で、アノニマスです。ケンジが案内する店は「覘き部屋」であったり「ランジェリーパブ」「お見合いパブ」などの日本の生々しい欲望の最前線です。

 そこにうごめくのは、ブランドものにしか興味を示さず、一流品で身を飾れば自分が一流になったと思う女であったり、その女を欲望を剥き出しに口説くサラリーマンであったり、何かがすり減ってしまったような顔をしたボーイやマスターであったりします。そしてフランクと女達の浮ついた会話、「それで、君はここで何をしているんだ?」という言葉の果てに殺戮が起きます。酸鼻を極めた殺戮は、歌舞伎町というソドムとゴモラを焼き尽くす火のようです。
フランクは自分の殺した人間について

おれはあの連中と接しながら、こいつらのからだには血や肉ではなくて、ぬいぐるみようにおがくずとかビニールの切れ端がつまっているのではないかと思って、ずっと苛立っていた

と言い、フランクが切り裂いたのは人間ではなく「ぬいぐるみ」だったのでしょう。これでもかという残酷な殺戮シーンを書きながら、(誤解を恐れずに言えば)作家は快楽を感じていたのではないかと思います。新宿歌舞伎町にフランクが下す鉄槌は、作家自身の鉄槌でもあるのでしょう。ここまではホラー、それもサイコ・ホラーです。

 この殺戮のあと、フランクは「人生の最後のパートをきみにゆだねたい」とケンジに言います。警察に行けというわけです。出会ってわずか二日しか経っていないアメリカ人が、目の前で大量殺人を犯したのですから、警察に駆け込むのが普通です。まして自分自身が殺されるかもしれない状況下にありますが、ケンジは警察に駆け込むどころか、大晦日をフランクと過ごすことになります。フランクは自らの生い立ちと狂気を語り、ケンジはフランクの殺戮を容認します。

 フランクは、「16人いる家族のためペルーで小さなアパートを借りるために日本に来た」売春婦と出会い、彼女から聞いた体験談をケンジに伝えます。フランクは、この売春婦の口を借りて日本と日本人について語るのです。
 日本は一度も異民族の侵略を受けたことが無いため、キリストのような唯一神は存在しないこと、日本人は石や木に様々の神が宿っているという宗教とも言えないアニミズムを信じていること、1年の終わりには、煩悩と罪を浄化する「除夜の鐘」という優しいシステムがあることを語ります。

 ラストで、フランクはコロラド州の寿司バーで注文した「ミソスープ」の話をします。その時は飲まなかったが、ずっと気になっていた、心残りはケンジと一緒にミソスープを飲めなかったことだと言います。これからミソスープを飲みに行こうと誘うケンジに対してフランクは、「ぼくは今ミソスープのど真ん中にいる」と言います。日本的微温にどっぷりと使っているという意味でしょうか。そしてフランクはケンジに白鳥の羽を渡しますが、この白鳥は、フランクが子供時代に殺しその血を飲んだ白鳥でしょう。ぬるま湯にドップリと浸かっている日本人へのフランクからのメッセージです。シャッターの閉まった「お見合いパブ」の店内には惨殺された死体がころがり、平和な日本の裏側には狂気が存在するんだということでしょう。

 この小説が話題となったのは、新聞連載中に「神戸連続児童殺傷事件」が発生し、この事件とフランクの少年時代の行為に類似があったためです。子供時代に動物を殺傷するフランクを登場させ、その少年が成長して起こす殺戮を描いたわけですから、神戸の少年とフランクはほとんどダブって見えます。こちらの方は、又別の機会に考えてみます。
 
  『パリ、テキサス』『ベルリン・天使の詩』のヴィム・ヴェンダースによって映画化の予定がありましたが、潰えたようです。

タグ:読書
nice!(5)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

nice! 5

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0