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児島襄 満州帝国 Ⅱ [日記(2013)]

満州帝国 (2) (文春文庫 (141‐14))
 引き続き児島襄 の『満州帝国  Ⅱ』です。Ⅱでは、1932年の満州国建国から帝政を経て、日ソ中立条約で守られた筈の満州にソ連の参戦が迫る1944年までを扱っています。
 満州事変(柳条湖事件)の勃発が1931年9月18日、満州国誕生が翌1932年3月1日、わずか5ヶ月で国家が誕生したわけです。満州国をデザインしたのも、満州事変を起こした関東軍。良くも悪くも、満州国は関東軍の自作自演です。
 以下、感想というより個人的なメモです。 

【共和国】
 1931年1月、柳条湖事件を引き起こした関東軍参謀板垣大佐は、「満蒙中央政府設立案」を携えて陸軍中央と国家設立の協議に入ります。其の内容は

①奉天省、吉林省、黒竜江省、熱河省、蒙古省を統括する中央政府を樹立する。
②各省代表による政務委員会を組織して政府機構の研究準備をおこなう。
③中央政府は、2月下旬または3月上旬ころに国連調査委員会(リットン調査団)が来るまでに設置する。
④満州を独立国家とする。
新国家の首脳者は「(廃帝)溥儀を充つ。其の名所は大総統以下の適当なる名称を付し、復辟的傾向を避くる如くす

といもので、主要産業を国有化する「社会民主主義共和国」に似た政治体制を採用するというものです。

 満州事変は、満州の地を仮想敵国ソ連の防波堤とする目的で起こされました。作戦の企画者である石原莞爾の「満蒙問題私見」においても、「領有」が想定され、「独立国家」は想定されていません。何処かで「満州領有論」が「満州独立論」に変わっています。その理由について、本書は石原の口に語らせています。
 漢民族は政治能力に乏しいから、日本が占領して指導してやるほうが彼等のためになると考えていた。しかし事変で彼等と関わるうちに認識が変わった。満蒙の地に日本人、中国人が協力して本当の「王道楽土」ができると考えるようになった(東京朝日主催の座談会発言)。というものです。
 実際にそう発言しているのですから信じるほかはありませんが、領有から独立への転換には、政治的軍事的理由がありそうです。満蒙を「国家」にすることでリットン調査団=国際世論の矛先をかわそうと考えたのではないでしょうか。参謀本部(東京)作成の「支那問題処理方針要項」でも、独立国家が期待されていますから、このあたりが答えでしょう。
 
 関東軍が後押しして外国(東三省)に傀儡国家を作るという大義名分が「五族協和」「王道楽土」です。しかし、立憲君主国の日本が作る傀儡国家が「国家社会主義・満州」では都合が悪いですから、関東軍の中でも修正案「満蒙問題善後処理要綱」というものが起草されます。これがその後の満州国の実態に一番近いのではないでしょうか?

・溥儀を首脳とするが、復辟の色彩を避け、表面上は立憲協和的国家とする。
・しかし、実体は中央独裁こっかとして、日本帝国の政治的傀儡とする。
・門戸開放、機会均等の主義を標榜するが、日本及び日本人の利益を第一優先とする。
・満州国は、満蒙人民が自らの意志で建設した国であり、彼等だけでは統治が出来ないだろうから日本が手伝っているという建前で通す。
・日本人の利益を最優先とする。

夜郎自大もいいところです。
 1932年3月1日、廃帝溥儀を執政とする共和国、満州国が誕生します。

【王道楽土、五族協和
 一方日本国内はどうだったかというと、満州景気に湧きます。そして登場するのが「一旗挙げる」組です。

新たな発展の機会と場を与えられた(と勘違いした?)ことは日本国内に活気をふきこみ、満州へ満蒙へ、の鬨の声は日増しに高調した。・・・
日本で実らせきらない(実らなかった)恋を満州で曠野で結実させようとする駆け落ち男女や、馬賊にあこがれる冒険趣味の青年などをふくめて、大部分が満州国を「日本の植民地」とみなしていたことは、まちがいありません。

これが、偽らざる満州「王道楽土」の実態でしょう。一方「五族協和」はどうかといえば、 

五族は平等だとする「協和会」にしても、すでに発足時から日、鮮、満、漢、蒙古五族のうち、満、漢、蒙古三族はひとまとめにして満州人となり、日、鮮、満の順序に序列が定められていた。三千万人の大部分を占める存在でありながら、満州人は最下位に位置づけられているのである

だそうです。関東軍の軍事、満鉄の経済を背景に優越的地位を振り回す日本人が大半だったのでしょう。
 「日本で実らせきらない恋を満州で曠野で結実させようとする駆け落ち男女」というのは笑いますが、著者が言うように、ある意味国内の貧困の輸出先だったことは否めません。そのひとつが、昭和恐慌によって困窮した村を村落ごと満州に移すを「分村」です。満州拓殖公社を作り、満人の農民を強制的に移住させ、その農地を買い叩いて日本からの移民に再分配するというもので、高邁な「五族協和」もそのレベルです。 5%の日本人が95%の鮮、満、漢、蒙を支配する構図です。

【満州産業開発5カ年計画】
石原少将は、満州帝国に土産を持ってきた。満州産業開発5カ年計画-である。

 満州事変当時の関東軍参謀石原中佐は、1932年に一旦関東軍を去り1937年に関東軍参謀副長として満州に戻ります。本書によると、石原がこの計画を策定したように書いていますが、どうなんでしょう、ともかく日本の会計予算(24億円)を超える28億7千万円の予算が付きます。1937年には日中戦争がはじまり、軍需物資を必要とする日本は、「五カ年計画」の予算を50億に積み増しします。

 「満州産業開発5カ年計画」の中核を担ったのが「満鉄」と「満業(満州重工業開発株式会社)」です。「満業」は陸軍の要請によって日本産業が本社を満州に移し、満州の鉱工業を垂直統合するために生まれた国策会社です。
 資源の乏しい日本に比べ、石炭、石油、鉄鉱石の豊富な満州は重化学工業を興すに適した土地ですです。この日本の投資によって、鉄道の総延長距離は1932年の6,000kmが1939年には10,000kmを越え、道路は国道15,000kmが新設され、小学校は新たに1万校が開校し就学率は12%から38%へと上昇します。阿片中毒患者は100万人が40万人へと減少し、年間の匪賊出現回数はこれも1/10に減少します。「満州産業開発5カ年計画」によって満州のインフラは格段に整備されたことになります。もっとも、日本人以外の満人に、どれほどの恩恵があったのかは?ですが。
 

タグ:満州 読書
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