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ドストエフスキー 悪霊 第2部 (2) [日記(2014)]

悪霊〈2〉 (光文社古典新訳文庫)
【第7章 同志仲間】
 ここまで読んできて、ピョートルの悪役ぶりばかり目につきます(スタヴローギンは影が薄い)。第7章「同志仲間」では、ピョートルによってヴィルギンスキーの家で「あの会」が開かれます。スタヴローギン、キリーロフ、シャートフ、リプーチン等おなじみの人物を含め20人ほどが集まります。
 新たに登場したヴィルギンスキー、その妻アリーナ、シガリョフ達が勝手に喋り散らすだけで何が論議されているのか全く不明。フーリエについての意見も出ますから、これは、ドストエフスキーが死刑宣告をうけ、恩赦でシベリアに流される原因となった「空想的社会主義サークル」の戯画かと思われます。

 ピョートルが会合を牛耳っていますから、ただのカリカチュアでは終わりません。ピョートルは、会の欺瞞性に気づき脱会を目論んでいるシャートフを、罠にかけ裏切り者のレッテルを貼る集会です。「政治的殺人」計画を知った場合警察に密告するか、という踏み絵を全員に突きつけます。これは、シャートフに「お前を殺すぞ」と言っているようなものです。当然、シャートフは踏み絵を踏まずにヴィルギンスキーの家を後にします。
 踏まなかったのはもうひとりは、スタヴローギン。ピョートルはスタヴローギンを追いかけ、フェージカまで現れて

 あなたはこのぼくがレビャートキンに千五百ルーブル渡し、それでもってフェージカにやつを切り殺す機会をあたえようと仕向けている。ぼくにはね、わかっているんですよ。ぼくがやつの道づれに妻を殺したがっていると、あなたは考えているんでしょう。犯罪でもってぼくを縛りつけることで、あなたはむろん、ぼくにたいする支配権をにぎろうっていう魂胆なんだ

ピョートルの奸計はとどまるところを知りません。ただ、ここまでところ、ピョートルの真の狙いというものがさっぱり分からない。ピョートルも最初は高邁な理想を抱いて「社会改革」の世界に入ったのでしょうが、政治の魔力に絡め取られたか何かで彼の中の悪魔が目覚め、手段が目的化したというところかも知れません。
 シャートフ殺害の目的は、

つまり、サークルのメンバー四人をそそのかし、残りの一人のメンバーを、密告の怖れありとかなんとか言って殺させるんです。そうしたら、あなたは、たちまち四人をがっちり結束させられる、流された血で縛るんですよ。連中はあなたの奴隷になって、反抗するどころか、説明すら求めなくなる。は、は、は!

と、ピョートルの「内ゲバの論理」が語られます。

【第8章 イワン王子】
 ピョートルの意図がやっと語られます。ピュートルは、5人を小隊とする革命組織「五人組」を各地に作り、これを使って全国規模での反乱を企て、その混乱に乗じてロシアの救世主「イワン王子」を擁して権力を握ろうというのが彼の戦略です。イワン王子というのは、ロシア民話に登場する英雄だそうで、笑います。もっと笑うのは、五人組は、リプーチンやヴィルギンスキーを構成員とする一組しか存在せず、企てるというより夢想にしか過ぎません。

中央委員会といったって、あなたとぼくだけなんですから。支部なんて、いくらでも好きなだけつくれますよ
ぼくはペテン師ではあっても、社会主義者じゃない

とうそぶきます。

ぼくたちはこれからあちこちに火を放ちます……伝説を流します……それには、あのろくでもない《グループ》が役に立つという寸法です。あのグループのなかから、どんな銃火にも立ち向かい、しかもそれを名誉と感謝するような志願兵を探しだしてきます。そう、そうして動乱時代がはじまるわけです! 世界がいまだかつて見たこともないような動揺が生まれるんです……古いロシアは霧にかき消され、大地は古い神々をしのんで泣きだします……そう、そこをねらいすまして、ぼくたちは、あるひとりの人物を野に放つ……それは、だれか?」 「だれです?」 「イワン皇子です」

 そしてこの「イワン王子」の役をスタヴロンスキーにやらせようというわけです。ピュートルに言わせると、スタヴロンスキーのカリスマ性が「イワン王子」にピッタリだそうですが、どこがピッタリなのかさっぱり分かりません(笑。そうした計画のなかで、ピョートルは、フェージカを使ってレビャートキンとマリアを殺させを犯罪でもってスタヴロンスキーを縛りつけようとするわけです。ピョートルは、スタヴロンスキーは本当はリザヴェータに惚れているのに、早まってマリアと結婚したため、マリアとその兄のレビャートキンが邪魔になっていると考えているわけです。

【G(アントン・ラヴレンチエヴィチ)】
 もうひとりよく分からないのが、『悪霊』の語り手であるG氏です。ピョートルの父ステパン・ヴェルホーヴェンスキーの友人として登場し、この物語をクロニクルとして第一人称で語り始めます。この「第7章同志仲間」において、メンバーではないG氏は当然会に参加していないわけですから、第一人称で語ることはできません。参加もしていない会の様子を語るために、三人称となっていますが、この一人称と三人称の使い分けはどういう意味があるのでしょうか。それとも、『ペスト』の「私」のように、G氏=登場人物の誰か、というトリックがひそんでいるのか?。ミステリ『罪と罰』『カラマーゾフ』を書いた作家のことですから、何かとんでもない意図が秘められているのかもしれません。

 いつまでたっても『スタヴローギンの告白』に行けません(笑。

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