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ドストエフスキー 悪霊 第3部 (2) [日記(2014)]

悪霊 3 (光文社古典新訳文庫)
【キリーロフの自殺】
 『悪霊』には様々な世界観(思想)が登場します。スタヴローギンのニヒリズム、ピョートルの革命至上主義、シャートフのロシア民族主義、シガリョフのユートピア論とともに、キリーロフの人神思想(無神論)もそのひとつです。どれもよく分からないのですが、この人神思想が最も分かりにくいです。
 キリーロフは、第1部で「自殺できる人間が神になる」と無神論の一端をのぞかせていますが、第3部ではもう少し突っ込んだ表現があります。
 
神が存在するなら、すべての意志は神のものだ、神の意志からぼくは出られない。存在しなければ、すべての意志はぼくのもの、ってことになる、ぼくは我意を宣言する義務がある(キリーロフ)

我意? どうして義務があるんです?(ピョートル)

なぜかといえば、すべての意志がぼくのものになるからだ。この地球全体で、神を終わらせて、我意を信じ、もっとも完全な点で我意を主張しようなどという人間はだれもいない。これはね、貧乏人が遺産を手にして怖気づき、それを所有するだけの力が自分にはないと思って、その金袋に近づけないでいるのと同じ理屈なんだ。ぼくは我意を主張したい。たとえひとりででも、やってみせる(キリーロフ)

 こういうことかと想像します。神は全知全能ですから、神が存在すれば、自分の存在=自分の意志は神の意志ということになります。神が存在しないなら自分の意志は自分のもの。では、神は存在するのか?そんなこと分かりませんね。キリーロフは神など存在しないと考えていますから、それを自ら証明しようとします。つまり、自分の意思=我意によって自殺することで神の意思など存在しないということを証明しようというわけです。よく分からないのは、キリーロフの自殺も神の意思だとすれば、この理屈は成り立たないと思うのですが。神という概念、存在は、個人の心の領域の問題ですから、キリーロフという存在そのものが無くなれば、神もまた存在しなくなるという意味なら、分かります。

神は存在しない、という観念より高いものはない。人類の歴史がぼくに味方している。人間がやってきたことといえば、せいぜい自分を殺さずに生きていけるよう神をでっちあげたことぐらいで、これまでの全世界の歴史なんてたんにそれだけのものだった。全世界の歴史でこのぼくだけが、はじめて神をでっちあげようとしなかった。

 これはよく分かります。神をでっちあげ、全てを神の意思に責任転嫁することで、人間はなんとかやってきたわけです。世の中には「理不尽」なことがいっぱいあります。この理不尽を、突き詰めてゆけば人は生きてゆくことができませんから、それを受け入れるために神(の意思)という精神の安全弁を作ったのです。キリーロフは、自殺という手段でこの安全弁を取っ払おうというわけです。

 ピョートルは、そういうキリーロフの無神論を利用します。シャートフを殺したのは自分であるという遺書を書かせ、キリーロフは神を殺し、自分が神になるために拳銃自殺します。キリーロフは死にますが、彼の無神論は『カラマーゾフ』でイワンが引き継ぐことになります。

 勝手な感想を言えば、スタヴローギンのニヒリズムも、ピョートルの革命至上主義も、シャートフのロシア民族主義、シガリョフのユートピア論、キリーロフの人神思想(無神論)も、それぞれが信じる「神」だと思うのですが。

【スタヴローギン】
死霊相関図.png
 『悪霊』はスタヴローギンを主人公とする物語ですが、先にも書いたように、影の薄い主人公です。スタヴローギンは、シャートフ、キリーロフ、ピョートルの思想と行動に影響を与え、この三人が、特にピョートルが最初から最後まで小説の原動力となります。シャートフはピョートルによって殺され、キリーロフは自殺し、ピョートルだけが生き残って逃亡します。従って、この3人を思想的に支配するのはスタヴローギンだということになるわけです。しかし、その影響を与え駆使するシーンは出てきません。どうも、根はスイスにあるようですが、あとは読者に想像に任せるといったところです。

 一方、スタヴローギンを取り巻く女性たちは、下宿屋の娘マトリョーシカ(『告白』に登場)、貴族の娘リザヴェータ、シャートフの妹ダーリヤ、妻マリア、そして最後に登場するシャートの妻マリヤ。マトリョーシカは自殺し、妻マリアはピョートルの指示でフェージカに殺され、リザヴェータはマリアの殺害現場で群集に殺され、シャートフの妻マリヤもスタヴローギンの子供を産んで母子ともに死に、生き残るのはダーリヤだけです。
 スタヴローギンとこれら女性たちの関係は、スイス滞在中に生まれたようです。スイス時代は1行も描かれていませんから、物語の最初から「そうした関係にある女性」として登場します。ラストで、スタヴローギンに呼び出される「看護婦」ダーリヤも、何故スタヴローギンの「看護婦」なのか、説明はありません。

 8人の登場人物は、8個の惑星のようにスタヴローギンという太陽の周りを回ります。その磁場で8個の惑星を従えて中心に居座るスタヴローギンは、さながら輝かない太陽の如き存在です。スタヴローギンは、『告白』と最後のダーリヤに宛てた手紙以外には、ほとんど自己を語っていません。8個の惑星が輝く時、その反射によって存在が照射されるだけです。
 そしてそのうち6人が殺され自殺します。6個の惑星が崩壊して磁場のバランスが崩れ去り、中心であったスタヴローギンもまた自殺します。

 やっと『死霊』を読了しました。面白かったかというと、しんどかった、というのが正直な感想です。『悪霊』の舞台を年表にすると、

農奴解放(1861)
ネチャーエフ事件(1868)
『悪霊』連載開始(1871)
アレクサンドル2世暗殺(1881)
ロシア革命(1917)

 この社会状況は、亀山センセイによると、

農奴解放令以後、新たな自由化の波に翻弄され、社会全体が混沌とした様相を見せはじめていた。
ドストエフスキーが恐ろしいと感じ、怒りと絶望にかられたのは、そうした時代の変化でもなければ、小説のモデルとなったネチャーエフ事件でもなく、まさに農奴解放後に目立ちはじめたロシア社会全体の綻び、具体的には、無気力化する貴族階級、プチブル化する中産階級、それに反比例して野放図に荒れくるう下層階級の人々の姿だった。

ということになるらしいです。『悪霊』の中には、そうした混沌が描かれていることになります。ステパン・ヴェルホーヴェンスキーもレビャートキンも、そういった文脈で読まないといけないのでしょうが、21世紀の日本の読者には荷が重すぎます。

 これも亀山センセイの解説ですが、

(シガリョーフ)がとなえる革命の将来は、みごとなまでに、後の全体主義の哲学を予言している。
すなわち、「人類を平等ならざる二つの部分」に分断し、「人類の十分の一は、個人の自由と、残りの十分の九にたいする無限の権利を享受します。残りの十分の九の人間は個性をうしない、家畜の群れのようなものに変わり」、やがて「原初の無垢」を獲得する。シガリョーフがまさにそのようなものとしてイメージした未来図こそ、ドストエフスキーが、社会主義の来るべき末路として思い描き、同時に革命運動に対する肩入れを躊躇させたものの正体にほかならない。

なるほ、ドストエフスキーは、革命の後に来るスターリニズムまで予見していたことになります。
 
 感想文になっていません。時間を置いてまた再読してみます。

《過去の記録》
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