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織田作之助 可能性の文学(1946年12月) [日記(2014)]

六白金星・可能性の文学 他十一篇 (岩波文庫)可能性の文学
 「大阪」の次は「文学」です。織田作の小説が文学なのかどうか分かりませんが、文学全集の中に織田作の巻がありますから、「文学」なのでしょう。個人的は、面白ければそれでいいのです。

 この評論のような『可能性の文学』自体もまた一編の小説です。「文学論」を小説にするために、作者は「坂田三吉」を冒頭に据えます。村田英雄が「王将」で歌った坂田三吉です。そして、「王将」の歌詞とこの『可能性の文学』が同じ位相であることに驚かされます。
「王将」の3番です、

明日は東京に出て行くからは 何がなんでも勝たねばならぬ 云々(西条八十)
 
 織田作もまた、読売新聞に連載中の『土曜婦人』を書き継ぐために、1946年11月に上京しています。
 
 坂田は無学文盲、棋譜も読めず、封じ手の字も書けず、師匠もなく、我流の一流をあみ出して、型に捉えられぬ関西将棋の中でも最も型破りの「坂田将棋」は天衣無縫の棋風として一世を風靡し、一時は大阪名人と自称したが、晩年は不遇であった。

上手いです。

無学文盲で将棋のほかには何にも判らず、世間づきあいも出来ず、他人の仲介がなくてはひとに会えず、住所を秘し、玄関の戸はあけたことがなく、孤独な将棋馬鹿であった坂田の一生には、随分横紙破りの茶目気もあったし、世間の人気もあったが、やはり悲劇の翳かげがつきまとっていたのではなかろうか。

ほとんど織田作は自分のことを言っている(予言している)ようです。
 
 坂田は東京に出て行って定跡破りの奇手を指して負けます。坂田の名言「銀が泣いている」という言葉をとらえ、「阿呆な将棋は指すな」という女房「こはる」の遺言を守れずに、
 
一生一代の対局に「阿呆な将棋をさし」てしまった坂田三吉が後世に残したのは、結局この「銀が泣いてる」という一句だけであった

と受け、

しかし、私は銀が泣いたことよりも、坂田が一生一代の対局でさした「阿呆な将棋」を坂田の傑作として、永く記憶したいのである。・・・坂田三吉は定跡に挑戦することによって、将棋の可能性を拡大しようとしたのだ。

と結論付けます。「可能性」が登場しました。文学の可能性、可能性の文学の枕に坂田三吉を出し、東京の棋壇(文壇)に定跡破りの奇手を繰り出して負けた坂田三吉はオレだ!、というわけです。

上林暁が、近代小説への道に逆行していることは事実で、偶然を書かず虚構を書かず、生活の総決算は書くが生活の可能性は書かず、末期の眼を目標とする日本の伝統的小説の限界内に蟄居ちっきょしている彼こそ、文壇的ではあるまいか。

 処女作をけなされた恨みで、スタンダールやバルザックの虚構と物語性を持ち出し、私小説家で病妻ものを書いた上林暁をやっつけます。ここで注目したいのは、偶然と虚構を書くことが近代小説の条件だとしていることです。サイコロで行動を決める主人公を描いた『それでも私は行く』や、一昼夜の出来事に十数人の人物を登場させる『土曜夫人』は偶然と虚構の実践です。
 上林暁を斬った刀で今度は「小説の神さま」志賀直哉に挑みます。志賀直哉の権威が亜流を生み日本の近代小説をミスリードしていると非難します。ここに至って、論調はヒステリックとなり、文学「論」とはなっていません。ミスリードされた文壇を、

彼等は人間を描いているというかも知れないが、結局自分を描いているだけで、しかも、自分を描いても自分の可能性は描かず、身辺だけを描いているだけだ。他人を描いても、ありのまま自分が眺めた他人だけで、他人の可能性は描かない。彼等は自分の身辺以外の人間には興味がなく、そして自分の身辺以外の人間は描けない。

と書きつつも、私小説、志賀直哉的な小説に憧れていたことを告白しています。

日本の文学の考え方は可能性よりも、まず限界の中での深さということを尊び、権威への服従を誠実と考え、一行の嘘も眼の中にはいった煤のように思い、すべてお茶漬趣味である。そしてこの考え方がオルソドックスとしての権威を持っていることに、私はひそかにアンチテエゼを試みつつ、やはりノスタルジア的な色眼を使うというジレンマに陥っていたのである。しかし、最近私は漸くこのオルソドックスに挑戦する覚悟がついた。

そのジレンマを踏ん切って、オレは志賀直哉が『灰色の月』を書き終わったところから小説を書き始める、というアジテーションに至ります。じゃぁアンタのいう可能性の文学とはどんなものなんだ?。

人間の可能性は例えばスタンダールがスタンダール自身の可能性即ちジュリアンやファブリスという主人公の、個人的情熱の可能性を追究することによって、人間いかに生くべきかという一つの典型にまで高め

たと書いていますから、「人間いかに生くべきか」と書くことが可能性の文学らしい。そうした教養主義的な意味では、新しさは何もありません。また、サルトルを論じて

裸かの肉体をモラルやヒューマニズムや観念のヴェールを着せずに、描いたのだ。そして、人間が醜怪なる実存である限り、いかなるヴェールも虚偽であり、偽善であるとしたのだ。

もう少し突っ込んでもらわないと、衒学趣味と言われても仕方がないように思います。
 
 織田作は、『土曜夫人』の舞台を東京に移すために上京し、銀座裏の旅館でこの『可能性の文学』を書いています。初出は、1946年12月の「改造」。翌1月10日には亡くなっていますから、満身創痍の織田作之助の精一杯の反逆であり無頼かもしれません。

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