ゴードン・W・プランゲ ゾルゲ 東京を狙え 上 (1985原書房) [日記(2014)]
「諜報」は英語で“intelligence”ですが、「ゾルゲ事件」を見ると、ゾルゲたちのスパイ活動が文字通りのintelligence活動であったことが分かります。ゾルゲは、ドイツ大使館の武官オット(後に大使)に日本の政治・経済情報をレクチャーし、独ソ戦(バルバロッサ作戦)の正確な開始日時を掴みます。ゾルゲはハンブルグ大学で政治学博士を取得しいる学究でもあり、ドイツの新聞社の記者、ソ連のスパイとして独自の情報網を持っていますから、大使館以上の情報収集、分析能力があったわけです。オットの信頼を得たゾルゲは、大使館に部屋を与えられ、クーリエ(外交伝書使)まで務めるほどドイツ大使館に食い込みます。
その情報網の最大のものが、ゾルゲ事件で連座刑死する尾崎秀実です。尾崎は、朝日新聞記者、内閣嘱託、満鉄調査部嘱託として新聞雑誌に寄稿する中国問題の専門家です。尾崎は、西園寺公一を通じた人脈によって近衛文麿の私的政策研究集団、「昭和研究会(蝋山政道、高橋亀吉、笠信太郎、三木清など)」のメンバーとなり、さらに、近衛が総理大臣になってからは、その私的諮問機関である「朝飯会」に参加します。プランゲは、「朝飯会」をシャドーキャビネットと書いていますから、尾崎は政策決定に何らかの影響を及ぼす立場にあったのでしょう。ゾルゲがモスクワに送った「南進論」の情報は、尾崎が政府中枢に食い込むことによって得られたものです。
さらに、ゾルゲの諜報には、宮城与徳(米共産党員)がその配下を使って足で集めた軍事、経済情報が加わります。
ゾルゲがドイツ大使館の信用を獲得するのは、「二・二六事件(1936)」です。ゾルゲは、その日本研究と諜報網から得られた情報を元に二・二六事件の本質をオットに教え、ドイツの雑誌に発表して名声を高めます。ゾルゲは、事件を皇道派(反ソ)の暴発と捉え、統制派の勝利によって日ソ関係が安定すると予測します。当然、その情報は赤軍第四部にも打電され、スパイ・ゾルゲの評価も高まったはずです。
もうひとつの事件が日中戦争の導火線となった「盧溝橋事件(1937)」です。近衛内閣は不拡大方針を閣議決定しますが、中国問題の専門家である尾崎は、事件が局地的な突発事故では終わらず、全中国国民(国民党政府、共産勢力)を敵に回す全面戦争に発展し、世界大戦へと拡大すると主張します(「長期抗戦の行方」他)。事実はその通りで、日本は8年に及ぶ日中戦争の泥沼に足を取られることにまります。
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