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ゴードン・W・プランゲ ゾルゲ 東京を狙え 下 [日記(2014)]

ゾルゲ・東京を狙え〈下〉
加藤哲郎のネチズン・カレッジの「現代史研究室」専門課程2によると、現在流布しているゾルゲのイメージは、
1)ゾルゲを取り調べ裁いた日本側の資料『現代史資料 ゾルゲ事件(みすず書房)』に基づくゾルゲ(ゾルゲ+尾崎秀実の「ゾルゲ諜報団」)
2)GHQ・G2のウィロビーによってまとめられた反共、赤狩りを意図した『赤色スパイ団の全貌 ゾルゲ事件』に描かれたゾルゲ(ゾルゲ+スメドレーの反米スパイ)
3)大祖国戦争の英雄、「ソ連邦英雄」としてのゾルゲ(文字通り祖国を救った英雄)

 この3つに分類されるようです。私などは、(日本人ですから)昭和の東京で暗躍する「ゾルゲ・尾崎諜報団」のイメージを持っています。戦後(と言っても1964年)ソ連で「英雄」となったこと、東京以前に上海で諜報活動をしていたことは知っていましたが、GHQがゾルゲ事件を調べ、スメドレー等反米活動家とひと括りにしてマッカーシズムの宣伝材料にしていたことは、今回はじめて知りました。ウィロビー報告は、原題が“SHANGHAI CONSPIRACY THE SORGE SPY RING(1950)”で、上海の諜報活動をメインに、米国人の反米活動を取り上げたものだそうです。

 ウィロビー報告は、GHQが集めた膨大な資料の中から、マッカーシズムに都合のよい事実だけを切り張りしたもののようで、プランゲの『ゾルゲ 東京を狙え』は、上海での反米活動を扱ったウィロビー報告の続編の位置づけです。では、本書が『赤色スパイ ゾルゲ事件』の「東京編」かというと、プランゲも歴史学者ですから、反共の宣伝本ではなく、記述は冷静です。
 歴史書かというとそうでもなく、例えば、ゾルゲは独ソ戦を前にその緊迫した情報をモスクワ(赤軍第四部)に送るのですが、モスクワは無視。「貴下の情報の信頼性を疑う」という返電に怒り狂い、絶望するゾルゲを描く辺りは小説を読んでいるようです。絶望のあまり、花子を押し倒して「情けを通じ」(石井花子インビュー)と筆が滑る辺りは笑います。

 モスクワがゾルゲの情報を重視しなかった原因のひとつが、諜報団の無線技士クラウゼンのサボタージュです。ゾルゲの報告を適当に端折って送信していたのです。場合によっては、重要なものは送信しなかったというのです。何故そうなったかというと、スパイのストレスから心臓を患ったクラウゼンの体調、ドイツの躍進に比べてソ連の共産体制が色褪せてきたこと、多分これが大きと思うのですが、リーダーのゾルゲに信頼が置けなくなったことです。クラウゼンは青写真複写機の輸入販売を隠れ蓑にしていますが、社業好調で相当な利益を生むようになり、モスクワは資金の調達が困難となって、クラウゼンのビジネスから資金を流用し始めます。これに、ゾルゲの唯我独尊の振る舞いが加われば、もうヤメタということになるわけです。

 クラウゼンのサボタージュにもかかわらず、バルバロッサ作戦の開始日(1941/6/22)と、同9月の御前会議(帝国国策遂行要領の決定)はモスクワに打電されています。この2つがゾルゲの最大の功績だと思われます。前者は、ゾルゲの功績としてその電報を旧ソ連が公表しています。ゾルゲがドイツ大使館の武官から得た情報です。一方、クラウゼンははっきりした日付を打った覚えは無いと『現代史資料』で語っているようで、この辺りも20年経ってソ連がゾルゲを復活させた政治的意図を感じます?。
 後者については尾崎の情報です。「朝飯会」のルートを通じた情報と、尾崎が満州出張で裏を取った(満州鉄道の輸送)確度の高い情報です。この情報によって、日本の侵攻は無いと判断したソ連は、シベリアの兵力を西部戦線に投入し独ソ戦を勝ち抜くわけです。

 ゾルゲの情報 →日本の脅威が無くなった →満州、シベリア部隊の西部戦線への移動 →独ソ戦勝利と、そうきれいには行かないというのがプランゲの論です。スターリンとしては、未確定な日本の脅威より、モスクワに迫りつつあるドイツ軍に対処するために東部の兵力を西部戦線に投入したのだと言います。確かに、一諜報員、それも二重スパイであるかも知れないドイツ人の情報によって、国家の運命を決めるような政策決定がなされるとは考えられません。案外的を得た説だと思います。
 
 「ゾルゲ」を今日読む意味があるのかどうか分かりませんが、個人的には面白かったです。 

タグ:ゾルゲ 読書
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