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読書と映画 悪童日記(2013独ハンガリー) [日記(2015)]

悪童日記 (ハヤカワepi文庫)悪童日記 [DVD]
《読書》
 映画を見た機会に再読しました。
 第二次世界対戦のハンガリーの疎開児童の日常を即物的な文体で描いた日記です。
双子の少年「ぼくら」は、食糧難と空襲の「大きい町」から国境に近い「小さい町」の「おばあちゃん」の家に疎開します。この固有名詞の欠落は、ぼくらとおばあちゃんの奇矯な反倫理的とも言えるふるまいを「お伽噺」に変えます。
 大きい町はハンガリーの首都ブダペストで、小さい町は、オーストリア国境に近いクーセグで、ハンガリー人のアゴタ・クリストフがフランス語で書きフランスで発表された無国籍のお伽噺です。第二次大戦下のハンガリーはナチス・ドイツの占領下にあり、終戦とともにソ連軍によって解放されます。そうした状況が一見そっけなく描き込まれます。お伽噺の形をとることで、お伽噺がかえってリアリティを持って読み手に迫ります、そこが『悪童日記』の面白さです。

 『悪童日記』は、3~5頁ほどの短いエピソードの積み重ねから成り立っています。

【双子】
 『悪童日記』の筆者、マセた小学生。自分の置かれた環境を理解し、肉体と精神を鍛えあげて適応に努める。双子は精神的に分かちがたい一心同体として「ぼくら」というひとりの人格として描かれる。三部作の『ふたりの証拠』『第三の嘘』によって、その名前と「正体」が明らかになる。

【おばあちゃん】
 双子の母親方の祖母。夫を毒殺し(真偽不明)、この町では「魔女」と呼ばれている。母親は家を飛び出して10年音信不通。祖母との関係は良好ではなく、今回の疎開によって自分に孫のいることを始めて知った。従って双子を「雌犬の子供」と呼び、双子を引き取るものの、双子に家の手伝いをさせその代価として食事を与えるという関係。母親が息子たちに送った衣服も、市場売ってしまうという鬼婆として描かれる。
 卒中で倒れ、双子に毒殺を頼み亡くなる。
 ソ連軍の侵攻によって、ロシア語が話せるロシア語圏の出身であることが明かされる。これが如何なる意味を持つのかは不明。
【兎っ子】
 おばあちゃんの隣家(と言っても田舎の事、かなり離れている、数百m?)の三つ口の少女。盗みで、聾唖盲目の母親を養っている。双子はこの少女から盗みカッパライを学ぶ。
 司祭に自分の「われめ」を見せ、誰にも相手にされないため犬と交わると云う破天荒な少女。ソ連軍侵攻に及んで十数人の兵士と交わり、歓喜の果てに死ぬ。
【ドイツ軍将校】
 ユダヤ人強制収容所の所長で、おばあちゃんの家の離れに寄宿する小児性愛者。美貌の双子の保護者。
 『悪童日記』においては、ナチスはカリカチュアライズされた小児性愛者に過ぎない。将校の従卒は、真っ当なドイツ兵として描かれる。
【司祭】
 兎っ子の「われめ」を見たことで、双子から強請られる 。教会の女中は、双子の入浴と洗濯を買って出て性的な欲望を満たそうとする。女中は、連行されるユダヤ人を愚弄したため、双子に銃弾をストーブに入れられ重傷を負う。『悪童日記』においては、宗教や教会もナチス同様に愚弄の対象でしかない。
【母親】
 双子をおばあちゃんに預ける。後に赤ん坊(双子の妹)を抱いて兵士とともに双子引き取りに現れるが、双子は母親と行くことを拒む。
 おばあちゃんの家の前で爆撃会って赤ん坊共々命を落とし、庭に埋められる。
【父親】
 戦争終結後、妻と双子を探しておばあちゃんの家に現れる。反政府運動?のため故国に居場所が無くなり、双子の手引きで国境を越えるが地雷に触れて死亡。
 母親も父親も、相対化された他人に過ぎない。
【別離】
 『悪童日記』の終章であり、続編『ふたりの証拠』『第三の嘘』の序章。
 双子の片割れもまた、父親に続いて国境越えようとおばあちゃんの財産(ユダヤ人の宝石)を持ち準備をする。

地雷はジグザグに、Wの形にはいちされているんです。二つの柵の間を直角に真っ直ぐ横切るとすれば、踏んでしまう可能性のある足元の地雷は一個だけです。

 父親は地雷に触れて死亡する。

手に亜麻布の袋を提げ、真新しい足跡の上を、それから、おとうさんのぐったり体の上を踏んで、ぼくらのうちの一人が、もうひとつの国へ去る。

残ったほうの一人は、おばあちゃんの家に戻る。

 ラストに於て、それまでひとつの人格として描かれた「ぼくら」は初めてふたつ人格となります。

《映画》
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 映画は、性的に露骨なエピソードを除いて原作を忠実に映像化しています。原作は、即物的な表現、乾いた文体にひそむユーモアが、膠のように ひとつひとつのエピソードを繋げて『悪童日記』を形作っています。映画には、この「膠」のようなものが稀薄で、エピソードがブツ切れに切れているように思われます。

 ラストの、父親の死体を踏み越えて国境を越えるシーンも、言わば父親に地雷を踏ませ、安全を確かめた上での越境です。
原作を忠実に映像化すれば(原作では感情を交えず淡々と描写される)、このとんでもない行為がとんでもない行為とは映りません。この小説を映像化する難しさです。
 小説では、双子は常に「ぼくら」というひとつの人格として表現されます。ひとつの人格が二つの人格に分離して、ひとりは国境を越え、もうひとりはおばあちゃんの家に残るというラストが成立するのです。
 映画では、双子を映像として登場させますが、ふたりを登場させれば、ふたりでひとつの人格と云う表現は困難となります。この辺りも映画化の難しいところです。

 小説を読んでいない観客には分かりにくい映画だと思われます。

監督:ヤーノシュ・サース
出演:アンドラーシュ・ジェーマント、ラースロー・ジェーマント、ピロシュカ・モルナール


タグ:読書
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