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丸谷才一 恋と日本文学と本居宣長、女の救はれ [日記(2015)]

恋と日本文学と本居宣長・女の救はれ (講談社文芸文庫)
 『恋と日本文学と本居宣長』、『女の救はれ』の二編からなり、 もともとは『恋と女の日本文学』というタイトルの本だったようです。光源氏の女色の物語が何故「文学」なのか?という疑問の答えになる(かもしれないと)読んでみました。 著者によると、

わが文学の恋愛肯定論を論じ、次いで日本文学史をさながら一本の赤い糸のように貫く女人往生主題を説く。

という評論です。

 そういえば、歌や詩にしろ小説にしろ、日本文学は恋を主題としたものが多いです。万葉集の1/3は相聞歌、源氏は言うに及ばず『和泉式部日記』は恋の日記文学、文豪・漱石の小説も読みようによっては三角関係ばかり。シェイクスピアもトルストイもドストエフスキーも恋愛が主要なモチーフのひとつとなっています。文「学」というものは、男にとっては女「学」、女にとっては男「学」なのでしょうか。
 著者は、中国文学に「恋」が希薄だといいます。唐代の「遊仙窟」という男女の情愛を書いた小説は中国では消えてしまい、遣唐使によって日本にもたらされたものが清代になって中国に逆輸入されています。中国では、史書や英雄譚は盛んですが、恋を扱った詩歌や小説は本として扱われず軽んじられたわけです。中国では、儒教が生活や思想を縛っているために、儒教と逸脱する恋愛の本は書かれなかったのです。
 この恋を中核に据えた日本文学の伝統が、明治になって、西洋文学の受容(恋愛の文学)とそれ以降の文学の発展を産んだと言います。「もののあはれ」と「色好み」です。
 著者は、本居宣長が西洋文学の影響を全く受けずに日本文学の本質を「もののあはれ」と捉えたことを評価します。

 そもそも日本文学では、何故恋が主要なモチーフとなるのか?。
 生まれた子供の母親が誰であるかは確実ですが、父親は推測に過ぎません。従って、血統、血縁というものを確実に繋ぎ財産を相続してゆくためには、母系が確実なわけです。「母系社会」です。母系社会で家を継ぐのは女性であり、男性は家を出て外で「妻」を探さなければならないわけです。母系社会の枠組みで、男性が「妻」になる女性の元に通う形態が「妻問婚」です。光源氏と葵の上、紫の上の関係です。
 貴族社会では、未婚の女性は絶対に男性にその姿を見せません。文字通り深窓の令嬢です。噂だけで見たこともない女性を口説くために、男性は女性に歌(短歌)を贈ります。歌の上手い下手が男性の値打ちとなりますから、現代の男性がオシャレをするように歌作りの修行に励んだのでしょう。心に響く歌なら女性はOKを出し、男は忍んで行きます。事が成って朝になってみれば、女性はとんでもないブスだったという話が『末摘花』(源氏)です。 
 
 で庶民はというと、たぶん「歌垣」でしょうね。歌垣で、男はコレはという女性を歌で口説き、OKが出れば「夜這い」ということになるのでしょう。この歌から文学が生まれ、文学の本質(出発)は男女の恋愛にあるというのが本書の主題です。そう言われてみると、光源氏の女性遍歴の小説が「文学」だというのは、分からなくもないです。 
 
わたしは、日本文学核心にあるものは、天皇が貴女たちに言い寄る恋歌であると思ってゐます。

だそうです。
 建礼門院と義経と『壇浦夜合戦記』(春本)に始まる『女の救はれ』も面白いですが、また今度。

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