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江藤淳 漱石とその時代 (第1部) [日記(2015)]

漱石とその時代 第1部 (新潮選書)
 晩年まで書き継がれ未完に終わった江藤淳の漱石の評伝です。第1部は慶応3年の誕生から明治33年の五高教授在任までを(漱石33歳)、漱石の書簡、『硝子戸の中』などの随筆、小説を読み込んで、書名通り「漱石とその時代」を描いています。

【出自】・・・慶応三年~消えた西郷星
 父夏目小兵衛直克50歳、母千枝41歳の時の5男3女の末っ子であり、決して歓迎されて生まれたわけではないということ。そのためか、里子に出され1歳で塩原昌之助に養子となります。9歳で昌之助の離婚にともない夏目家に引き取られ、21歳で復籍するという複雑な家庭環境で育ったことが、漱石という人間に陰影を刻みこんだというのです。48歳(大正4年)の漱石が、『硝子戸の中』『道草』でこの頃の記憶をたどっでいるということは、やはり心に深く刻み込まれたのでしょう。
 夏目家は江戸時代から名主をつとめる裕福な家であり、大学南校や大学予備門に通う兄たちを思えば、何故オレだけが、という思いがあったことでしょう。
 育て父母は金之助を病的に溺愛し、実家に戻ってからは、実の父親から疎んぜられ母親とはわずか5年で死別します。夏目家の4男(兄のひとりは幼い頃病死)でありながら、21歳まで塩原金之助を名乗らされ、復縁にあたっては310円で売り買いされるように夏目金之助となります。漱石の小説に金銭がついてまわるのは、この辺りの事情によるということです。

 夏目家に戻った金之助が不幸だっということはなく、府立1中から大学予備門を経て、アルバイトをしながらですが帝国大学まで進学するのですから、恵まれた環境だっと言えます。当時の大学予備門(後の第一高等学校)、帝国大学で学ぶということは、全国に大学と大学予備門は1校しかないわけで、「超」が何個か付くほどのエリートです。家を出て下宿をしながら級友と富士山に登り江ノ島にハイキングに行ったり、ボートを漕ぎ教師をからかって面白がるなど、けっこう青春を謳歌しています。

【英文学】・・・職業と「アッコンプリッシメント」
 一時建築家を目指した金之助が、帝国大学文科大学英文科に進んだのかは明確には書かれていません。元々漢籍で育ち寄席を愛し一時は二松学舎で本格的に漢学を学ぼうとした金之助が、何故英文科を選択したのかです(子規は国文科)。高等学校(予備門)本科に進学する時にすでに英文科を目指しています。いったんは建築学科志望でフランス語を選択します。ところが、腹膜炎で試験が受けられなかったため落第し、同じクラスの哲学学科志望の級友に翻意を薦められ、志望をあっさり建築から文学へと変えています(『処女作追懐談』)。衣食のために建築家になるより、英文学で「国家有用の人」になろうと決心したわけです。
 この翻意については、資料が無いのか著者の分析も鈍りがちです。19歳の金之助の中で何かが起こった筈です。

【登世(とせ)】・・・ある厭世観、登勢という嫂
 嫂・登世については、一度書きました。『行人』の二郎と嫂・直の危ない関係が気になって、本書の「登世という嫂」だけを拾い読みしました。今回通読すると、「登世という嫂」の前に「ある厭世観」が置かれ、「登世という嫂」の冒頭の「嫂の登世に妊娠の兆候があらわれたのは、明治二十四年4月ごろのことである。」という意味深な書き出しを補完しています。
 明治23年7月(23歳)に、金之助と正岡子規は東京帝国大学に入学します。帰省中の子規に、金之助は「この頃は何となく浮世が嫌になり・・・」という手紙を書いています。この厭世観を江藤は、

「煩悩の焰(ほのお)さかんにして甘露の法雨待てども来たらず、慾海の波険にして何日(いつ)彼岸に達すべしとも思はれず」というような文面を見ると、憂鬱の霧のなかにかくされているのが性の衝動だったことはほとんど確実である」。・・・「生きて居ればこそ根もなき毀誉に心を労し、無実の褒貶に気を揉んで」・・・というところから推測すれば、この恋は現実の日常生活の秩序なかでは実現しがたい反道徳的な恋だったものと思われる。

 この恋の相手を、嫂・登世だと推測します。これだけでは唐突感を免れ得ませんが、『それから』、『行人』に見られる漱石の嫂に対する執着から、恋の相手を登世とする江藤の推測は十分根拠があると思われます。登世は明治21年に兄・和三郎の二度目の妻となっています。

登世に対する好意が和三郎の放蕩に対する義憤に刺激されて、金之助のなかでかなり急速に恋愛感情に移行して行ったとしても不自然ではない。・・・同居している嫂と未婚の弟という関係には微妙なものがひそんでいる。嫂は兄の妻であり、そのことによって禁忌の彼方にいるが、同時に若い女でもありすでに性生活をおこなっているいることによって、弟にとっては渇望されている性の象徴ともなるからである。

 この年(明治23年)の8月、金之助は東京で猖獗をきわめるコレラを避けるために箱根に湯治に出かけています。この湯治も、金之助が登世から遠ざかる必要を感じたからだというのが著者の推理です。では、明治23年の初夏から夏にかけて何があったのか?。江藤は「百合の花」を持ち出します。百合の花は、『それから』で、代助と三千代が逢う場面(三千代が「銀杏返」で登場するシーン)に象徴的な小道具として登場します。百合の花は『夢十夜』にも性的イメージをまとって登場するそうです。百合が夏の花であることから、

百合は女の象徴であり、それが喚起する濃密な情緒は、花が男女を結びつける性を象徴することを暗示している。・・・明治23年の夏、金之助は百合の花の「」甘たるい強い香」をその記憶に刻印されるような忘れがたい経験を味わった。その場に百合の花は実際にあったかも知れず、またなかったかもしれない。だがいずれにしろそれは深く性に結びついた体験であり、その相手はおそらく嫂の登世意外にはあり得なかったのである。

 また、明治36年、神経症に苦しむなかで作られた英詩にもこのイメージが濃厚に現れているといいます。
   Dawn of Ccreation(想像の夜明け)
天は彼女の最初の悲しみのなかでいった。「お別れする前にいま一度接吻を」
「ああいとしい者よ」と大地は答えた。
「千の接吻を、それがお前の悲しみを癒やすならば」
二人はひとときともに眠った。お互いの抱擁のなかに魂を結びあわせて
二人はひとつ、まだ天でも地でもなかった。
その時を見よ!雷鳴が轟いて二人を鞭うち、まどろみから喚びさました。
それは創造の夜明けであった。
それ以来二人は二度とまみえることがない。
・・・
ああ!天に再会するには大地はあまりに多く罪をにないすぎているのだ (江藤淳 訳)

 江藤は、「天」が女性で、「大地」が男性だという「あり得ない詩的倒錯」に注目します。「罪」によって雷鳴が轟きふたりを鞭打ち、登世は死んで天にあり、大地にいる金之助は多くの罪をになっているために二人は二度とまみえることがない、ということです。「ある厭世観」、「登勢という嫂」の文脈で読むと、そうなります。当然、金之助得意の漢詩にも登世のイメージが読み込まれていることになります。

タグ:夏目漱石
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