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夏目漱石 坊っちゃん(漱石の松山) [日記(2016)]

坊っちゃん
 『坊っちゃん』の舞台となる松山で、金之助が中学教師として過ごしたのは、1895年(明治28年)4月からで、翌年の4月には第五高等学校講師として松山を離れています。この間、金之助は鏡子と見合いし婚約しています。何故東京を離れて松山に行き、松山で何があったのか興味が湧きます。
 金之助が『坊っちゃん』を『ホトトギス』に発表したのは、第一高等学校講師と東京帝国大学文科大学講師を兼任している1906年(明治39年)4月です。当然、小説の中身が金之助の体験そのものでありません。10年前を振り返って松山時代を書いたのですから、何らかの影を影が落ちていそうな気もします。

 (以下いずれも江藤淳『漱石とその時代』第1部を参照しています)
 金之助が東京帝国大学、文科大学英文学科を卒業したのは、1893年(明治26年)7月。英文学専攻の文学士としては2本で二人目というエリート中のエリートですが、何と就職先が決まらなかったようで大学院に進学します。10月になって高等師範学校の英語教師の口が見つかります。年収450円(月37.5円)。奨学金の返済7.5円と父への仕送り10円を差し引くと、月20円。高等師範学校と掛け持ちで東京専門学校でもアルバイトをしています。

 1895年(明治28年)4月に中学教師として松山に赴任します。給与は月80円で校長より20円高かったということです。高等師範学校の二倍以上です。金之助が給与に釣られて松山に行ったのかというとそうでもなく、松山に逃げ出したというのが江藤淳の見解です。
 金之助は、教師という職業に興味が持てず、さりとてこれといった目的も見いだせないまま神経症に苛まれることになります。その頃金之介は小石川の寺に寄宿していますが、隣の寺の尼僧に陰口をたたかれているという妄想にとり憑かれ、遂には幻聴まで聴くようになります。その妄想に「銀杏返しにたけながをかけた」女性に似た尼僧が登場し、その尼僧を看病するという幻まで見るようになります(夏目鏡子『漱石の思ひ出』)。

尼僧はたしかにだれかの「俤(おもかげ)を彷彿」とさせたが、それはあの「銀杏返しにたけながをかけた」娘ではなかった。それはかつてやはり病に臥していたひとりの女、そして彼が「深切」に看病したいと願いながら果せなかった女の「俤」以外のものではありえない。
・・・金之助が執拗な迫害妄想にとり憑かれていたという事実は、逆に彼の内部によどむ罪悪感の存在を暗示している。(江藤淳『漱石とその時代』第1部) 

 また江藤の牽強付会かと言われそうですが、三角関係から漱石に再入門した私にとっては、説得力のある分析です。この罪悪感から逃れるように金之助は松山に行きます。
 松山の印象を子規にこう書き送っています、

只当地にても裏面(東京?)より故意に癇癪(かんしゃく)を起こさする様な御利口連あらば、一挺の短銃を懐ろにして帰京する決心に御座候。天道自ずから悠々、一死狂名を博するも亦一興に御座候・・・当地下等民のろまの癖に狡猾に御座候。
また、
僻地師友なし、面白き書あらば東京より御送を乞ふ。結婚、放蕩、読書の三の者其一を捉むにあらざれば、大抵の人は田舎に辛防(抱)は出来ぬ事と存候。当地の人間随分小理屈を云ふ処のよし、宿屋下宿皆ノロマの癖に不親切なるが如し。

 実際に金之助は見合いまでしたようです。鏡子と婚約したのもこういった経緯があったのかも知れません。
 「当地の人間随分小理屈を云ふ」というあたりは、『坊っちゃん』の狸や赤シャツに反映されているのでしょう。『坊っちゃん』にあるのは、「当地下等民皆ノロマの癖に狡猾」という松山に対する呪詛と、清に象徴される東京への望郷だけです。東京というより、江戸、江戸文化といったほうがよさそうです。
 やってられるか!という「癇癪」が「狡猾」に遭遇して「鉄拳」となる、これが漱石と『坊っちゃん』の関係だと思われます。
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