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映画 ハンナ・アーレント(2012独仏ルクセンブルグ) [日記(2018)]

ハンナ・アーレント [DVD]   「凡庸な悪」を提唱したアンナ・アーレントの映画があると知ったので、見てみました。

 ハンナ・アーレントは、1941年にナチに追われて米国に亡命、プリンストン、コロンビア、シカゴなどの大学教授を歴任したドイツ系ユダヤ人の政治哲学者です。政治哲学者が映画になるのか?、数学者アラン・チューリングが立派に映画(『イミテーション・ゲーム』)になったのだから、なるんでしょう...。

 1960年、ホロコーストに関わったSS中佐アイヒマンが、モザドによってアルゼンチンから拉致され、イスラエルで裁判が開始されます。自身もナチによってドイツを追われたアンナは、ニューヨーカー誌に傍聴記を掲載する契約を結び、イスラエルに出掛けます。

 被告席に現れたアイヒマンは、誰もが想像したホロコーストの怪物ではなく、実直な小役人風の人物。ハンナに言わせると「風邪を引いたガラスの中の幽霊」(暗殺回避のため、アイヒマンは防弾ガラスで囲った被告席に座っていた)。こんな平凡な男が何故ホロコーストに携わったのか。アイヒマンは、ヨーロッパ各地からユダヤ人を収容所に送る輸送の責任者であり、アイヒマンが運んだユダヤ人は600万人とも言われています。虐殺に直接手を染めてはいないが、収容所で虐殺されることを承知の上で輸送したのですから、立派な共同正犯です。アイヒマンは命令通り能力を傾けてユダヤ人をガス室に送り続けます。

 裁判シーンは、1961年当時の記録映画を挟み込み、リアルです。

 アイヒマンは、ホロコーストの罪を認めず、命令に従っただけだと一貫して無罪を主張します。平凡で小心な兵士(階級は親衛隊中佐)がホロコーストの片棒を担ぎ、命令を実行しただけだと主張するこの裁判から、ハンナは、悪人だけが悪を為すのではなく、平凡な人間も悪に手を染め得る、と結論付けます。

 手を染めない凡人もいるわけですから、その差はユダヤ人をガス室に送る行為について、考えたか考えなかったの差だと考え、アイヒマンは思考停止に陥っていたと結論づけます。裁判の過程でナチスのユダヤ人輸送に協力したユダヤ人組織の存在が明らかになります。これが前段。

 後段では、傍聴記録をまとめ『イェルサレムのアイヒマンー悪の陳腐さについての報告』としてニューヨーカー誌に発表した反響が描かれます。世論は、アイヒマンを極悪非道の人物であると決めつけ、アイヒマンのホロコースト荷担を小心な兵士の凡庸な悪と結論付けるハンナを非難します。ハンナは友人を失い、大学からは辞職勧告まで受けますが自説を曲げません。映画は、ハンナの凡庸な悪についての講義=ハンナのメッセージで幕を閉じます。

 映画は凡庸な悪を掘り下げず、世論に抗って自説を貫いた哲学者に賛辞を捧げているようにも見受けられます。ハンナ・アーレントという政治哲学者を甦らそうとしたことには敬意を表しますが、この辺りがこの映画の限界でしょう。凡庸な悪については、各自考えろとということでしょうか。

 アイヒマンは有罪となり1962年に処刑されます。最期まで無罪を主張していたようです。軍隊という命令が絶対の世界で、ユダヤ人を収容所に送る命令を一中佐が拒否し得たかどうか。アイヒマンが人道的立場で命令を拒否していれば、彼自身が収容所送りになっていたこと間違い無さそうです。戦争とは敵を殺すことであり、平時において殺人は悪ですが、戦時においては善であり、敵前逃亡はどこの国でも死刑です。

 ハンナはアイヒマンを擁護したわけではなく、アイヒマンの行為は許されないと公言しています。(ハンナの著作は読んでいませんが)ハンナが言いたかったのは、悪は誰でも行い得る、絶対的な悪人はいない、人は誰でもアイヒマンになりうるということだと思います。その根元的な問題を置き忘れて、ユダヤ人国家であるイスラエルの大義名分で、アイヒマンを裁くな、ということではないかと思います。
 日本人としては、原爆と東京大空襲をどう裁くんだと、つい言いたくなります。
 政治哲学者を映画にするのは、やはり無理があったようです。

監督:ルガレーテ・フォン・トロッタ
出演:バルバラ・スコヴァ

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