SSブログ

アイノ・クーシネン 革命の堕天使たち(1992平凡社) その1 ゾルゲ編 [日記(2018)]

DSC_6282.jpg
 1930年代の東京でゾルゲと接触し、日本の上流階級と交流したコミンテルンの女性スパイがいたというので、読んでみました。かなりマニアックな内容ですから(本もこのblogも)、ゾルゲとコミンテルン、スターリンの大粛清に興味のある人以外には、面白くもナントモないと思われます。
 因みに、堕天使は、主なる神の被造物でありながら、高慢や嫉妬がために神に反逆し、罰せられて天界を追放された天使、自由意志をもって堕落し、神から離反した天使である(wikipedia)

 コミンテルン党員のフィンランド人アイノ・クーシネンの回想記です。夫は、コミンテルン執行委員会書記として、レーニン、スターリン、フルシチョフの時代を生き延び、ソ連共産党中央委員会書記を務めた、オットー・クーシネン。彼女は1934年に来日して諜報活動に従事、1937年にソ連に帰ります。1965年にフィンランドに戻り、自伝(本書)を執筆し1970年に没しています。アイノ・クーシネンがソ連のスパイだったことが発覚したのは、戦後なってからのことです。

 目次
 第一章 運命の環
 第二章 コミンテルン
 第三章 アメリカへの派遣
 第四章 微笑の国、日本
 第五章 モスクワの刑務所
 第六章 ヴォルクタでの八年間の強制労働
 第七章 ソヴィエトの「自由」
 第八章 ポチマでの五年半
 第九章 最終的な釈放、フィンランドへの出国

 『革命の堕天使たち~回想のスターリン時代~』とあるように、第三章、第四章が諜報員としての活動で、第五章~第九章はスターリンの「大粛清」のトバッチリを受けた強制収容所でのアイノ・クーシネンの記録で、本書はこちらに力点が置かれています。

 アイノ・クーシネン 略歴
1886:フィンランドに生まれる
1919:オットー・クーシネンと出会い結婚
1924:オットーが執行委員を務めるコミンテルンで働く
1930:赤軍参謀本部第4局(ヤン・ベルジン)諜報員として渡米、米共産党と接触
1934:日本に入国、帝国ホテルに滞在し、朝日新聞の「中野男爵」からインビューを受ける。「ジャパン・タイムス」の上原某とも接触。
1935:ゾルゲと接触、モスクワとの連絡員がゾルゲ
アイノ、ゾルゲ、モスクワに召喚される(アイノに一年分の滞在費を渡す)、1935年4月、赤軍参謀本部第4局長ウリツキーに交代
1936:日本再入国、『微笑する日本』を出版
1937:モスクワに帰還、1938年逮捕され、シベリアのヴォルクタの強制労働収容所へ送られる
1946:釈放されるが、1949年再逮捕されポチマの強制労働収容所へ送られる
1955:釈放、名誉回復
1965:フィンランド帰国
1966:手記(本書)執筆
1970:死去、84歳
1972:ウィーンで手記出版
 諜報員としてアメリカ、日本に滞在し、帰国して逮捕され強制収容所で13年を過ごすという数奇な運命をたどっています。

 ゾルゲ ー第四章 微笑の国、日本ー
 第四章が日本での諜報活動ですが、具体的な活動内容はほとんで記されていません(あるいは故意にぼかした)。1934年、アイノは、赤軍参謀本部第4局のヤン・ベルジン(ゾルゲの上司でもある)配下の諜報員として、ジャーナリストのエリザベト・ハンソン夫人として多額の活動費(数千ド)を与えられて来日します。訪日にあたって、ベルジンは「東京では優雅な暮らし振りをして、日本の最有力政治家たちと交際」することを命じアイノに政治状況を説きます、
 最後にベルジンは政治状況の話をした。彼の観るところ、1931年の日中間の武力衝突(満州事変)と、それに続く日本の満州占領と傀儡国家満州国の創建、それによるソヴィエト=日本あいだの関係悪化はそのまま続くという。日本は上海も奪取し、それは返還されたものの、中国固有の国境を脅かしていた。1932年犬養首相がより強硬な軍事政策を要求する狂信者たちに暗殺された。彼の後継者たちは軍に追従的で、1年後、日本は国際連盟から脱退を宣言した。
 曖昧な記述ですが、ベルジンはアイノが「優雅な暮らし」を武器に有力政治家や上流階級に食い込み、日本の対中国政策=対ソ政策を探ることを命じたものと思われます。

 (帝国)ホテルのロビーとレストランは、外交官、ビジネスマン、ジャーナリスト、それにスパイも含めて、東京の国際人全体の待ち合わせ場所となっていた。
1935年1月、スパイとスパイは帝国ホテルのロビーで接触します。ふたりは、10年前コミンテルンで顔を会わせていたようです。
 彼は、わたしの偽名がイングリッドであることは知っているが、わたしの任務については聞かされていないと言った。彼は、わたしに命令や指示を与える権限を持たされていなかったが、わたしと第四課との連絡はすべて彼を通じてなされることになっていた。
 ゾルゲはベルジンからの指令を仲介する連絡員に過ぎなかったと書いています。2回目の会見で、「ゾルゲの指定した待ち合わせ場所は、行ってみると下級のドイツ人バーだった」。このバーは、ゾルゲがウェイトレスをしていた石井花子と知り合った銀座のドイツ料理店「ケテルス」かもしれません。この時ゾルゲはモスクワに召喚されていることを伝え、何時戻れるかわからないので「一年間暮らすに十分な金」をアイノに渡します。ゾルゲは7月にモスクワに帰り、9月には再来日しています。

 11月にアイノはモスクワ帰還の伝言をゾルゲから受け、マックス・クラウゼンと合流し、
 わたしたちはタクシーで、ぞるげの質素な二部屋のアパートへ行った。ゾルゲは伝言を確認したが、その理由はわからないと言い張った。わたしは、シベリア横断鉄道に乗り、モスクワのホテル・メトローポリに投宿し、そこで連絡があることになっていた。彼はモスクワの人々への伝言を私に託し、旅行に十分な金があるかと聞いて、運賃をくれた。(クラウゼンは)わたしに、もし2万ドル送ってくれるなら、横浜に無線電気店を開くことができ、それはよい隠れ蓑になるし、また彼の生活費を捻出する助けにもなるだろうとモスクワに言ってくれるようにと頼んだ。
 クラウゼンは、後にコピー機製作所「クラウゼン商会」を経営し成功したようですから、彼らしい頼みです。

 1935年12月にモスクワ帰還したアイノは、ベルジンの後任である第四局長ウリツキーと会います。
 ベルジンと同じく、彼はわたしに特別な指令を与えず、学習を続け、交際を広げるようにと述べた。彼は、しかし、ゾルゲ博士との接触は避けるようにと忠告した。彼はゾルゲに不満を持っていた。ゾルゲの助手が無線電気店を開くために2万ドルを要求しているとわたしが彼に告げると、彼は怒って叫ぶのだった。「ごろつきらめが、飲んだくれて金ばかり使いおって。1コペイカたりともやらんぞ」。
 バルバロッサ作戦の情報に接したスターリンは、ゾルゲを「日本のちっぽけな工場や女郎屋で情報を仕入れている<くそたれ野郎>」と、こき下ろしたということですから、当時のゾルゲの評判は芳しくなかったようです。1937年11月のアイノとゾルゲの会見で彼女は、
 彼(クラウゼン)はわたしをゾルゲのアパートに連れて行った。飲み残しのウィスキー瓶を脇のテーブルに置き、泥酔してソファに横になっているゾルゲを見て、私は困惑した。明らかに彼はグラスを使っていなかった。
 モスクワはお見通しなのかもしれません(笑。この時ゾルゲは、彼とアイノを含む全員がモスクワに召還指令を受けていることを伝えます。指令の根拠が不明であり、モスクワ帰還は危険であると付け加えます。ゾルゲはスターリンの「大粛清」を知っていたのでしょう。1934年の党大会で、代議員139人の大半が、中央委員139人のうち100人が処刑され、彼らの上司でもある赤軍参謀本部第四局のヤン・ベルジンも1937年に逮捕され、後任のウリツキーもアメリカのスパイとして銃殺されます。ゾルゲが帰国すれば同じ運命をたどっていたことはほぼ確実と思われます。

 アイノは帰国して逮捕され13年におよぶ収容所生活を送り、ゾルゲはこれを拒否し歴史的な諜報活動の後日本の官権に捕まって処刑されます。

 「第四章 微笑の国、日本」で、アイノは、日本の上流階級と交際したこと、ゾルゲと接触があったこと以外何も書いていません。二二六事件についてゾルゲは詳細な分析を発表していますが、アイノは本書で一言も触れていません。生き延びたスパイが、諜報活動を事細かく書く筈はないのかもしれません。
 アイノによると、「中野男爵」の伝手で最上流階級の社交の場に招待されるようになり、皇居の園遊会にも招かれ、秩父宮(天皇の弟)とも複数回会っています。アイノは秩父宮を民主的な見解を持つ人物と書いていますが、北一輝を訪れ、後に二二六事件の首謀者のひとりとなる安藤輝三と親交を持つ秩父宮からどんな情報を引き出したのか、興味深いところです。

 アイノは、ゾルゲのように諜報グループを組織せず、単独で諜報活動を行っていたと思われます。ゾルゲには、内閣中枢にパイプを持つ尾崎秀実や日本各地を旅して情報収集する宮城与徳がいます。語学学校に通う程度の彼女の日本語で誘導尋問など出来るはずもなく、単独でどんな情報を引き出せたのかは疑問です。ゾルゲは、伝書使を使って情報を上海経由でモスクワに送り、その多くはクラウゼンの無線機でウラジオストック経由で送っています。アイノもこのルートを使ったと想像できます。
 アイノは、「中野男爵」や上流階級からどんな情報を得、それをどうやってモスクワに報告したのか、触れていません。アイノの東京滞在は、帝国ホテルのロビーで会った1935年1月から彼女が帰国する1937年11月まで約3年間で、これはゾルゲと重なっています。マックス・クラウゼンと共にゾルゲのアパートを訪れ、何度も活動資金の提供を受けています。アイノがゾルゲの「東京諜報グループ」の一員では無かったにしても、ふたりは赤軍参謀本部第4局のヤン・ベルジンの配下ですから、何らかの連携があった筈です。ゾルゲの調書にもアイノ・クーシネンの名は出てきません(アイノのコードネーム「イングリット」はわずかに登場します)。中国共産党との関わりを隠したように、日本の官権に露見していない活動は自供しなかったのでしょう。

 『革命の堕天使たち』に現れたゾルゲはこれだけです。1935~37年の東京で、リヒャルト・ゾルゲの姿にアイノ・クーシネンを重ねると、また違った形の「ゾルゲ事件」が見えてきそうです。


タグ:読書 ゾルゲ
nice!(6)  コメント(0) 
共通テーマ:

nice! 6

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。