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司馬遼太郎 胡蝶の夢(1) (1983新潮文庫、1976~1979朝日新聞) [日記(2018)]

胡蝶の夢〈第1巻〉 (新潮文庫)  明治維新を準備した要件のひとつが教育の普及です。江戸、大阪はもとより地方にいたるまで寺子屋が設けられ、藩校は230にのぼり、民間では松下村塾、適塾、シーボルトの鳴滝塾、佐藤泰然の順天堂などが開かれ、明治維新を推進する逸材が排出することなります。

 『胡蝶の夢』は、佐渡の質屋の息子、島倉伊之助(司馬凌海)と将軍家の奥医師、松本良順を主人公に、蘭学、蘭方医学が江戸の身分制度を突き崩してゆく様が描かれます。

伊之助
 語学の天才、島倉伊之助は、周りと上手くコミュニケーションが取れず、集団の中では常に浮いている存在として描かれます。往来を士農工商が歩いてゆき犬も忙しげ歩いてゆく。それをみて伊之助はくすくすと独り笑いしたりします。松本良順に訳を聞かれた伊之助は、
「犬も忙しげにゆくというのは、何か手前に用事があるのでございましょう。そのしたり顔を見ると、おかしゅうございます。」
伊之助の視線は人間に対してではなく、犬に向いています。赤犬と黒犬が、うむも言わずに擦れ違ってゆく、伊之助はそれがおかしいと言うのです。伊之助という存在の本質をすくい上げた様なエピソードで、(司馬遼ファンとしては)思わず唸ってしまいます。この周囲に溶け込めず常に軋轢を生む伊之助と常識人(でもないが)松本良順のボケとツッコミ?コンビが本書の魅力のひとつです。

 司馬凌海の履歴のなかに、ポンペから破門されるという事件があります。伊之助は、ポンペの不在を狙いすまして出島のポンペの部屋に無断で入り込み、蘭書を盗み読みすることを繰り返しています。本は「公物」という認識で、持ち出したり盗んだわけではなく誰が読んでも差し支えはないというわけです。それをポンペがどう感じるかは意識の外。またポンペが医学伝習所に寄付した薬を使って唐人を治療し、その謝礼で丸山で豪遊するということも繰り返しています。さらに盗み読みした本を使って(関寛斎の勧めもあって)『七新薬』という書物の出版まで企てます。もっとも当時の著作は執筆者には一銭も入らず、ボランティアみたいなものだそうですが。とポンペの機嫌を損ねた伊之助は「医学伝習所」を破門となります。

余談
 司馬遼太郎を読む楽しみのひとつが、作者が随所で披瀝する「余談」です。
 たとえば「友情」。忠と孝の縦の関係で成り立つ江戸社会に、友情という横の関係は育ち難く、それが現れたのは伊之助、良順より少し前の時代からではなかったかというのです。その傍証が『解体新書』。杉田玄白・前野良沢・中川淳庵、桂川甫周などは、藩も違い身分を異にし、藩命ではによらず、探究心だけで自発的に集まって翻訳を成し遂げます。そしてこの友人組織がこわれることなく持続したのは、作者によると、江戸期におけるめずらしい現象だといいます。友情の淵源を『解体新書』から説き起こされると、コロッと参ってしまいます(笑。

 もうひとつは「意地悪」。奥医師松本家(松本家は、表は漢方裏は蘭方)に婿養子として入った良順は、佐倉の蘭方医・佐藤泰然の息子であり、その医は蘭方。当時の将軍家の奥医師は漢方で固められ、蘭方を禁止しています。良順は、漢方医として奥医師を勤めますが、事あるごとに「意地悪」という仕打ちを受けることになります。
 作者によると、この時代、「意地悪」は独特な倫理的な行為だそうです。行儀知らず、慣例知らずで秩序からはみ出たと判断された場合、周囲から意地悪が発動されます。相手の非を相手自身に悟らせるための「身振り」「しぐさ」あるいは言葉によって仕掛ける行為だというのです。蘭方禁止の奥医師の世界で、秩序を壊しかねない良順は、事あるごとにこの意地悪を仕掛けられます。

 行儀知らずで自己中心的、「忖度」が全くできない伊之助に至っては、この意地悪は日常茶飯事。もっとも意地悪を意地悪と感じることの無い伊之助は、我が道を行くことになります。

長崎海軍伝習所
 良順は「長崎海軍伝習所」の医師として長崎に下ります。海軍伝習所のオランダ教師団として来日するポンペに師事しオランダ医学を学ぶためです。海軍伝習所は幕府が公に設立した伝習所です。良順は海軍伝習所同様の「長崎医学伝習所」の設立を目指しますが、蘭方を禁止する幕府はこれに難色を示し、良順がポンペの教えを受けることだけを許可します。良順は、ポンペから医学を学ぶ人々を自分の弟子とすることで「医学伝習所」を立ち上げます。つまり、良順はポンペから医学の個人指導を受ける、それを周りで大勢の日本人が聞いているという形式を取ったわけです。

 医学伝習所に集まった蘭医たちは、オランダ語読み書きできますが会話は全くできません。良順は、女性でしくじって江戸を去り佐倉の「順天堂」を経て故郷の佐渡に戻っていた伊之助をポンペの通訳として長崎に呼びます。良順、伊之助のコンビが復活し、医学伝習所=ポンペ学校がスタートします。

タグ:読書
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コメント 2

Lee

空気が読めないが一芸に秀でている伊之助は今で言うアスペルガー症候群なのでしょうね。順天堂が千葉県佐倉のルーツと初めて知りました。
by Lee (2018-10-27 11:08) 

べっちゃん

伊之助は、勉学のため近所の子供と遊ぶこともままならなかった、それが原因ということになっています。いずれにしろ、コミュニケーション能力を欠いた異能の伊之助、これが小説の魅力のひとつでもあります。
by べっちゃん (2018-10-28 07:25) 

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