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マルグリット・デュラス ヒロシマ・モナムール(2014 河出書房新社) [日記(2018)]

ヒロシマ・モナムール  映画『二十四時間の情事(ヒロシマ・モナムール)』の脚本を担当したマルグリット・デュラス(小説家)による、脚本、シノプス(あらすじ)と「補遺」を集めたものです。映画公開の翌1960年に出版され、著者生誕100年を記念した新訳として2014年に出版されたようです。
 本編の脚本は仏語の翻訳ですから、映画の字幕より詳しく、ト書きがシーンを補完しますから、「なるほど」ということになります。「補遺」は、「できあがった映画の映像についてコメントするかのような具合にやってみて」と監督アラン・レネの要請に基づいて書かれたものだそうです(撮影前に)。アラン・レネには彼なりの解釈があるでしょうが、脚本家デュラスが構想した(イメージした)『ヒロシマ・モナムール』を見てとることができます。
 
【シノプス】・・・主題について
映画の最初のセリフは

 君はヒロシマで何も見なかった(男)
 わたしはすべてを見た、すべてを(女)
 
 ふたりの最初のやりとりは・・・寓意的なものとなるだろう、それは要するに、オペラのやりとりとなるだろう。ヒロシマについて語ることは不可能だ。できることはただひとつ、ヒロシマについてついて語ることの不可能性について語ることである。ヒロシマを理解することはのっけから、人間精神が陥る典型的なまやかしとして、ここに定立される。
 
 君はヒロシマで何も見なかったと繰り返す男の言葉には、ヒロシマを理解する(語る)ことは人が陥る典型的な「まやかし」だ、という意味が込められています。この時点で男は女の戦争体験を知りません。女のわたしはすべてを見た(理解することが出来た)と言う言葉の背景には、彼女のヌヴェールの戦争体験があります。
 オペラのやりとりとは、この映画の男女の会話のトーンのことです。セリフそのものが、会話とは異なる朗読に近いものとなっています。この朗読調の会話、モノローグは、男と女の睦言を超えた映画の主題を暗示しています。
 女のわたしはすべてを見た(理解することが出来た)と言う言葉とともに、原爆の惨禍が延々と映し出されます。デュラスは、これを空っぽのモニュメントといいます。原爆の惨禍を伝えるニュース映画や原爆資料館の陳列物をいくら並べても、何らヒロシマを語ったことにはならない、ヒロシマを理解したことにはならない。デュラスはヒロシマを語るために、ヌヴェールでドイツ兵の恋人を殺され、敵を恋したため見せしめに丸刈りにされ故郷を追われた女を登場させます。この戦争体験を持つ女がヒロシマで男と出逢いつかの間の恋に陥る物語で、ヒロシマを語ろうとします。女の体験は個人的な体験であり20万人が犠牲となったヒロシマの惨禍と比ぶべくもありませんが、集団が個々で成り立っている以上両者は等価だということでしょう(これは、文学(映画)が成り立つ「何か」です)。ヌヴェールの戦争体験を持つ女がヒロシマで男と出逢うことで、
 ヒ・ロ・シ・マ、それがあなたの名 (女)
 そして、きみの名は、ヌヴェール (男)
というラストの会話へ収斂し、時空を超えてヒロシマは(ヌヴェールと)ともに分かち合う土地となります。
 ふたりの情事が映し出され、その背と腕に(エロスとタナトスが一体となったように)原爆の灰が降りかかります。一瞬で街と人間と人間の営みを消し去ったこの恐怖を、
 
 この恐ろしさを灰のなかから甦らせるのだ、それも恐ろしさをひとつの愛のなかなかに刻みこむことによっ甦らせるとしたら、その愛は必然的に異例なもの、そして《驚嘆させる》ものとなるだろう。このような愛は信じるに足るものとなるだろう、仮に愛の舞台が世界のどこか別のところ、死が時の腐食作用を停止させなかった場所であると想定してみればよい。
 
 戦争の恐怖を愛とともに蘇らせる、デュラスはこれが『ヒロシマ・モナムール』の主題のひとつだと言います。
 
【ト書き】・・・描写について
 男(岡田英次)が撮影現場で女(アニュエル・リヴァ)に再開し、明日帰国するという女を引き止めるシーンです。
ヒロシマ1.jpg ヒロシマ2.jpg
 男はゆっくりとした仕草で、看護婦のスカーフを取り去ろうとする。・・・男の仕草は、余裕たっぷりで、明確な意図が込められている。冒頭の場面と同じエロスの衝撃を、観る者が覚えるように。女の姿が映し出されるが、昨夜のベッド場面と同じく、髪が乱れている。そして女は、されるがままに男がスカーフを取り去るのを待っている。昨夜、されるがままに愛の仕草を受け容れたに違いないと思わせるようなやり方で。(ここで男に、エロス的な意味での機能的役割を与えること)・・・
 
 という演技指導が行われ、岡田英次はエロス的な意味での機能的役割を演技したわけです。きみを見るとすごく愛したくなるんだというセリフと、その次のシーンで男が女の髪を咬み女が男の指を噛むような仕草をすることで、ふたりの愛欲は観客に伝わってきます。映画の1シーン1シーンは意味を持って作られ、観客はそれを理解するこを求められていますが、ほとんどその意味を理解せず流しているのが現状です。これを理解させることが優れた映画の条件なのでしょう。
 
【補遺】・・・プロファイルについて
日本人の男の肖像
 男が日本人であるために惹かれたという誤解を避けるために、敢えて《バタ臭い》容姿の俳優が選ばれたようです。
 
 彼はこれまでの人生で《ごまかし》などはやったことがない。そんなことはやる必要もなかった。生活することにいつでも興味を覚えていた、十二分に興味を覚えていたから、自分の背後に青春の悩みを《引きずる》必要などないというたぐいの男である。
 
青春の悩みを《引きずる》という文言は、女のヌヴェールでの思い出と相対しているのかどうかは分かりません。このプロフィールは俳優に伝えられていた筈であり、そうした男として演技したとすれば、俳優とはなかなか高度で知的な職業と言わねばなりません。
 
フランス人の女の肖像
 この女の場合、愛によって魂の惑乱に投げ込まれ、他の女たちより大胆に深みにはまりこむ。他の女たちにくらべ、いっそう《愛そのものを愛おしく思う》ためである。
 愛のために死ねないことを彼女は知っている。それまでの人生で、愛のために死ぬという、この上なく麗しい機会をもったことはある。彼女はヌヴェールで死ななかった。それ以来、そして今日ヒロシマで、この日本人に出逢うまで、自分の運命を決する唯一の機会にについて執行猶予を与えられた者に特有の《魂の漠たる憂愁》を抱えこみ、自分とともに引きずってた。
 
というプロフィールが与えられます。
 
 この失われた(死の)機会について物語を語ることにより、彼女は文字通り自分の外に連れ出される、そして新しい男のほうへと運ばれる。
 身も魂もゆだねるとは、そういうことだ。
 愛による肉体の所有にとどまらず、婚姻にも匹敵する価値がそこにある。
 彼女はこの日本人にーヒロシマにおいてー自分にとっていちばん貴重なものを、・・・ヌヴェールにおける愛の死に生き残ってしまったみずからの生を、ゆだねているのである。
 
 『ヒロシマ・モナムール』は、反戦映画ではなく、《魂の漠たる憂愁》をヒロシマで解き放つフランス人の女の物語であることが分かります。その場所がヒロシマであったこと、憂愁の源がヌヴェールで愛のために死ねなかったこと、という意味では人間の奥深いところに戦争が与える傷の解放の物語、反戦の物語だとも言えます。
 
 脚本というものを初めて読みましたが、なかなか興味深いものがあります。ただ、映画を観ただけでここまで読むのは至難の技です。


タグ:読書
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