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辻 邦生 安土往還記(1968筑摩書房、1986 埼玉福祉会) [日記(2018)]

安土往還記 (新潮文庫)  本書は、ルイス・フロイスの『日本史』の写本に綴じ込まれていた手記の体裁をとった歴史小説です。手記の著者は、氏名不詳、ジェノバ、リスボン、メキシコを経て16世紀の安土桃山時代に来日したイタリア軍人です。書き出しは1570年、私(この手記の著者、以下同じ)は、イエズス会宣教師、カブラルとオルガンティノを京都まで送り届けるため長崎島原の「口の津」に上陸します。

 『安土往還記』は、この「私」がキリスト教を保護する織田信長の軍事顧問となり、信長が長島一向一揆、長篠の戦い、石山本願寺との戦いを経て本能寺で倒れるまでを描きます。

 教科書風にいえば信長は、日本で初めて合戦で大量の鉄砲を用い、楽市楽座によって経済を活性化させ、京に兵を進め、比叡山、一向一揆、石山本願寺など旧勢力を駆逐して全国統一の緒を作った英雄、ということになっています。キリスト教を保護し、茶の湯を好み、壮麗な安土城を築くなど、秀吉とともに安土桃山文化の牽引者でもあります。
 教科書を離れると、比叡山焼き討ちでは堂宇を焼き、延暦寺の僧俗、児童、智者、上人等をことごとく首を刎ねる数千人の大虐殺を行い、長島一向一揆の制圧では信徒2万、伊賀攻めでは3万の兵や一般人を殺したと言われ、日本史上類を見ない残虐な戦国大名の顔を持っています。
 この様々な顔を持つ信長を、「私」、すなわち作者・辻邦生でもあるわけですが、「道理」と「事が成る(成す)」という言葉でひとりの人格に統合しようとします。

 仏教の聖地・比叡山を焼き討ちし僧俗を虐殺した信長は、何故キリスト教を保護したのか?。ルイス・フロイス、カブラル、オルガンティノ、ヴァリャニーノなど信長に謁見し接触のあったイエズス会の牧師が登場しますが、本書にキリスト教の教義に関する話は一切ありません。信長が保護したのは、彼らのもたらす鉄砲、天体観測機器、軍事、造船、建築、航海術です。信長が愛したのはその功利性ではなく、機器や技術の持つ合理性、「道理」であり、憎悪したのは非道理だったわけです。彼は、目に見えるものを信じ、見えないものを是とする仏教の非合理性を排除したわけです。「私」は、最新式の拳銃を信長に披露し三段銃撃戦法を語ったことによって、信長の軍事顧問となります。信長は戦で敗けても嘆くとはありません。勝敗は戦力のたか多寡にあると考え、ひたすら軍備の拡張に努めます。長篠の戦いで信長が採ったとされる三段銃撃戦法、木津川口の戦いで使った鉄甲船や大砲は「私」の進言によるものとなっています。
 信長がイエズス会を庇護した背景には、この道理とともに、布教のために命を省みず極東まで来るという宣教師たちに、自分と同質のものを嗅ぎ付けたからです。

 信長の残虐性については、「私」は荒木村重の謀反を取り上げます。信長は村重の女房衆122人を銃殺し、一族36人子供にいたるまで頸をはねています。この残虐な行為と、雨に打たれる盲目の足萎えを憐れんで木綿二十反を与えた行為の矛盾を、「事が成る(成就する)」という信長の思想で結びつけます。私は信長自身に語らせます、

 温厚な荒木よ。お前はおれの無慈悲を責め、おれの無情を責める。だが事をして成らしめることがなかったら、そのような慈悲とは、温情とは、いったい何なのか。・・・雨に打たれる盲目の足萎えの哀れさに胸をつかれることと、合戦において非情であることとは、まったく同じことなのだ。荒木よ。合戦において、真に慈悲であるとは、ただ無慈悲となることしかないのだ。

 信長は事(天下布武)を成すために合戦をしているわけで、敵に慈悲をかけることはこの大義を汚すことに他ならない。事を成すということの究極には、合戦においては敵を殲滅する無慈悲があるというのです。
 事を成すということと、雨に打たれる盲目の足萎えを哀れむことは、精神の純度においては同じだということなのでしょう。

 この合理精神が16世紀に現れたことは奇跡であり、チェザーレ・ボルジアを彷彿とさせます。半世紀前の小説ですが、現代においても通用する信長像です。

タグ:読書
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