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司馬遼太郎 翔ぶが如く(3) [日記(2019)]

新装版 翔ぶが如く (3) (文春文庫) 新装版 翔ぶが如く (4) (文春文庫)続きです。
【私学校】
 征韓論に破れ鹿児島に帰った西郷は、自宅を離れ大隅半島の避地で猟をする毎日です。城下に居れば、帰郷した近衛兵や警察官たちが西郷を担ぎ反政府の兵を挙げる、その危険を避けたわけです。参議を辞職して帰郷し不平士族に担がれた江藤新平、前原一誠に比べ、西郷は自分の声望、存在自体の危険性を認識しています。西郷は、太政官の崩壊を食い止めようとしたのか、それとも蜂起の時期が熟するのを待っていたのか?。

 帰郷組と在郷士族を組織して「私学校」が設けられます。「○○館」など藩校によくある名称ではなく、単に私学校としたのは「官」に対する「私」という意気込みの表れでしょう。私学校設立は、薩摩士族の伝統の維持、反政府で沸きたっている士族を統御するための装置であったかもしれません。
 特異なことは、警察を含む県の行政も私学校の生徒によって握られたことです。鹿児島県は、県令・大山綱良(島津久光の側近)によって、新政府の布告の一切が握りつぶされ、あたかも独立国の状況にあります。これが県の行政掌握を容易にします。私学校の幹部である桐野利秋や篠原国幹は西郷を盟主として仰いでいますから、鹿児島県は西郷が行政と警察、軍事を握る独立国となります。もっとも西郷は城下を離れ猟をする毎日ですから、鹿児島県の頂点に立ったという自覚はなかったでしょう。西郷を憎む久光が私学校を許したということは、当時最大の「不平士族」であった久光が、新政府を見限った西郷を自分の同類と考えたのでしょう。

【神風連の乱】
 明治9年10月24日、熊本で「神風連の乱」が起こります。夜陰に乗じて熊本鎮台の司令官、県令を殺害し鎮台を襲撃し一旦はこれを制圧します。銃を使わず刀槍で戦ったため、体勢を建て直した鎮台(児玉源太郎)の銃撃によってわずか1日で鎮圧されます。乱自体は大規模なものではありませんが、この乱によって鎮台兵の弱さが証明され、西南戦争で西郷軍が、戦略的価値に乏しい熊本鎮台にこだわった(わずか170人で簡単に陥とせる)理由と考えられます。
 決起日を神前で占い、攘夷にこだわって鉄砲を使わず、薩摩とも連携をとらず単独で暴発した神風連とは、不思議な集団です。

 24日に起こった(わずか1日で鎮圧されますが)神風連の乱は、27日に「秋月の乱」、翌28日に「萩の乱(前原一誠)」を誘発し、明治10年2月19日の西南戦争へと続きます。
 後世から見ると、これら勝目のない蜂起も、自分達が立ち上がれば全国津々浦々で不平士族が立ち上がり西郷が立つだろう、という読みがあったからです。ところが、蜂起は「秋月の乱」、「萩の乱」で終息します。
 神風連の乱を聞いた西郷は

(西郷は)鹿児島の町は、平静か。と、問うた。(野村)忍介はいまのところ平静ですと答えると、西郷は「決して 雷同 させるな」といった。

といいます。また萩の乱についても

西郷は、前原がまちがっている、と断定した。・・・西郷はこのとき、声を励まして反乱そのものを否定した、という。前原のために百姓が兵禍に苦しむ、反乱は国家最大の不祥事である、といい、両人は取りつく しま もなかったという。

 佐賀の乱に破れた江藤新平が訪ねた際にも、西郷は江藤の決起に批判的でした。この時点で、西郷は決起する意図は全く無かったことになります。しかし、西南戦争は起こります。

【西郷暗殺疑惑、弾薬庫襲撃事件】
 決起するつもりのなかった西郷が西南戦争に「巻き込まれる」については、2つ事件によります。

 ひとつが「西郷暗殺計画」の発覚です。警視庁を握る川路利良は、二十三人の警察官(いずれも薩摩藩郷士)を鹿児島に派遣します。川路は、彼らに、決起は私学校幹部の暴走であり決起は成功しないことを教え込み、想定問答集まで用意し、士族一般と私学校の分断を図ります。帰郷団の派遣は露見して私学校によって捕らえられ、彼らの目的のひとつが西郷暗殺であったことが明らかになります。
 大久保は、西郷が絶対に決起しないこと信じていたようで、西南戦争勃発を聞き、その陣営に西郷のいることを知って愕然としたそうです。警視庁は内務省管轄ですから、その長たる大久保が暗殺を承認したかどうか。帰郷警察官の供述書に西郷暗殺があり、別途大久保が放った密偵が自供したことによって、新政府は西郷暗殺を企てたことになってしまいます。

 もうひとつが、私学校生徒による「弾薬庫襲撃事件」です。鹿児島城下には、島津斉彬の遺産ともいうべき兵器弾薬製造工場と弾薬庫があります。新政府の所有となっていますが、薩摩士族にとってみればこれらはもともと藩のものであり、開戦を見越して弾薬庫を襲いこれを奪います。組織されたものではなく、一部私学校生徒の暴発と言うべきものです。西郷は猟のために滞在していた大隅半島の避地これを聞いて、

「シモタ!」西郷は、最初、そうつぶやいたらしい。

かれ(西郷)は私学校という士族団をロシアの南下に備えるために使おうとしていた。そういう大状況がいつかは到来すると思い、それまで薩摩の士気を保存しようとしていたが、かれの生徒たちは目前の太政官の挑発にやすやすと乗り、一揆化した。生徒が一揆化して政府の犯罪人になった以上、西郷は見捨てるわけにいかず、鹿児島に戻らざるをえなかった。

 この「挑発」とは、政府が弾薬と兵器製造装置を大阪に運び込もうと船を鹿児島湾に入れたことを指します。

 2月2日、西郷は山をおります。

タグ:読書
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