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司馬遼太郎 壱岐・対馬の道(街道をゆく13) [日記(2019)]

街道をゆく 13 壱岐・対馬の道 (朝日文庫)  『耽羅紀行』の続きです。UDデジタル教科書体にしてみました。

 壱岐・対馬の歴史的存在は、古代における輸入鉄の海上輸送の経路に浮かんでいるということで、神話や伝承の上での不可思議な相貌を帯びているのである。・・・壱岐・対馬が古神道の上でも特異な存在であったことは、鉄をなかだちに朝鮮と往来していた情景をはずして考えることはできず・・・もし鉄という媒介がなかったら朝鮮から日本へ人間が移動するということもすくなかったであろう。

 ヤマト王権を支える農業生産と軍事は、鉄に支えられています。日本が砂鉄から鉄を採るたたら製鉄の技術を持つのは6世紀からですから、当時製鉄技術を持たなかった日本は、南朝鮮(辰韓)から武器や農具の素材である鉄鋌(てい)を輸入するため、壱岐、対馬は重要な寄港地だったようです。たぶん、大阪湾→瀬戸内海→唐津(末盧国)→壱岐→対馬→釜山のルートだったのではないかと思います。

卜占
 鉄以前、以後も多くの人・モノが行き来したはずです。そのひとつが鹿の骨や亀の甲羅を焼いて吉凶を占う卜占。律令制度の神祇官には対馬壱岐の卜占氏が属していたようで、北アジアを発祥とする鹿卜や亀卜は、朝鮮半島、対馬、壱岐を経由して日本に入ったはずです。稲の伝来、朝鮮語と日本語が膠着語として親戚関係にあること等々、当たり前といえば当たり前ですが、壱岐・対馬が大陸との十字路であったことは間違いのないことでしょう。

朝鮮通信使
 朝鮮通信使は、江戸時代には12回にわたって対馬、壱岐を経由してが日本を訪れています。対馬(府中)藩は、釜山に「倭館」を持つ幕府の対朝鮮外交、通商の窓口です(倭館は、オランダ貿易における長崎の「出島」のようなもの)。第9回通信使(1819)の随員(儒者)・申維翰についての記述が面白いです。申維翰は、報告書『海游録』を著していますが、その『海游録』です、

かれの文章癖として、日本人を人間として見ず、一種の人間であるところの、「倭」という言葉で表現する。朝鮮は中国以上に中華思想がつよく、むしろ激烈である。中華思想を持つものだけが「人」であり、持たないものは夷狄であり、それを漢字文化としてしか持っていない中途半端な日本人の場合、特殊人として「倭」としか言いようがない、というのがその基本思想であろう。・・・(対馬の民情は)「民の俗は、詐りと軽薄さがあって、欺くを善くす。すなわち、少しでも利があれば、死地に走ること鷲の如くである。」

 つまり「朱子学」を基準とする日本人観です。

 米が慢性的に不足する対馬藩は、朝鮮から米・豆100石の扶持を受ける「両属」の状態?とも言えます。固陋な申維翰は対馬藩を朝鮮の属領と見なし、藩主に礼をとろうとしません。これを察した藩主は、賢明にも姿を現さなかったとか...。

 対馬藩の応接係である儒者の
雨森芳洲と申維翰の交流を書いた一節が興味深いです。

 申維翰の『海游録』では、全文を読めば彼の雨森芳洲への愛情がにおってくるようであるが、しかし要所要所では、抽象的ながら、雨森が悪党でもあるかのように書いている。
「この人物は、険狼にして平らかではない。外向きには文(かざ)った辞を言うが、肚の中は剣を蓄えている。・・・もし彼をして国事に当たらしめ、権力をもたせれば、かならず隣(国境)に事を起こすに違いない

具体的根拠も挙げず、雨森芳洲を秀吉のように侵略してくる人物と書いています。著者は、雨森の生涯と思想から考えてそうした人物評を不当とし、

申維翰は保身のためにこのように書いたとも考えられる。倭奴(ウェノム、日本人の蔑称)の一小吏と仲良くしたという印象を読み手に与えないように、ことさらに『海游録』の末尾に、それまでの雨森の印象を、墨で消すようにして、このように唐突に評したのではないか。後で政敵から攻撃されるかもしれない理由と危惧をこんなかたちで消しておいたかと思われる。

朝鮮朱子学の太宗・李退渓は士禍によって官界を終われ、秀吉の朝鮮の役で水軍を率いて日本軍を破った李舜臣も讒訴によって獄に繋がれています。

 朝鮮と日本の関係は、時に個人レベルでの友情も成立させ難いほどに難しい。そのことがすでに十八世紀初頭から存在していたのである。

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