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司馬遼太郎 砂鉄のみち(街道をゆく7) [日記(2019)]

街道をゆく 7 甲賀と伊賀のみち、砂鉄のみちほか (朝日文庫)  『壱岐・対馬の道』で、鉄を求めてヤマト王権が壱岐・対馬から辰韓に至る海の道の話がありました。鉄繋がりで出雲の砂鉄の話です。

 古朝鮮
 著者は沖縄を訪れ、沖縄の人々は、日本人が「集団になった場合の猛々しさや鋭敏な好奇心」からまぬがれているという感想を持ちます。これは、室町時代まで鉄器の普及が十分でなかったため、沖縄の人々は鉄器を使ったことによって起こる人間の際限のない欲望の伸張から免れたのではないか、と想像します。鉄器の普及は耕地面積を広げ富を蓄積し、殺傷能力に優れた武器となって権力を生みます。
 鉄は朝鮮南部から鉄鋌の形で輸入されますが、古墳時代になると国内でも砂鉄から鉄が作られるようになります。この製鉄技術も朝鮮からもたらされたのではないか、製鉄集団が日本に渡ってきたのではないかというのが、著者の想像です。砂鉄から鉄を取るには、鋼1トンを得るに砂鉄12トン木炭14トンと、大量の木材が必要となります。朝鮮の山を丸裸にした製鉄集団は、砂鉄と木材を求めて日本に渡って来たのではないかといいます。

 朝鮮は、七世紀の新羅の統一以後、特に十四世紀から二十世紀初頭まで続いた李朝は儒教体制をとり文明史的に停滞します。このことは、鉄器の不足と無縁ではないというのです。朝鮮人は歴史的にも優秀な民族であり高い能力を持っているとしたうえで(この辺りは、無用な摩擦を避けようという配慮でしょう) 

しかしその能力を十分に反映した社会を近世まで持ち得なかった理由の一つは、鉄器の不足にあるといってよく同時に鉄器の不足が農業生産がゆるがなかったともいえる。・・・裏返せば日本列島に住む我々アジア人が、他のアジア人と違った歴史と、そして時に美質でもあり、同時に病根でもあるものを持ってしまったことにもつながっている。要するに、砂鉄がそうさせたことではないか。

 司馬遼太郎の「史観」は、東アジアを俯瞰する視点が魅力なのですが、朝鮮半島から砂鉄と木材を求めて製鉄集団が渡って来た、という仮説です。木を伐り使い尽くした朝鮮の製鉄集団が、「倭」には砂鉄と木炭にする木があると聞いて九州に渡来し、東進して良質の砂鉄を産する出雲にやって来たのでしょうか(北九州や壱岐には古代の製鉄遺跡がある)。

 出雲
 出雲には、スサノオノミコトが八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治して天叢雲剣(アメノムラクモノツルギ)を獲る有名な神話があります。

神話の中で、スサノオに退治られる鳥上山の八岐大蛇というのは、鳥上山にいた古代の砂鉄業者であるという。
古代には砂鉄を採集し山中でこれを鉄にする専門家が群れをなして中国山脈を移動していた、というのが、この解釈の前提になっている。想像するに一団は百人以上だったであろう。・・・当然ながら山間の盆地で稲を作っている農民の利益とは食い違ってしまう。 

という砂鉄集団と農耕民の対立のなかに、スサノオが現れるわけです。伝奇小説さながらです。もっともスサノオ渡来人説というのもあって、本書でも紹介されていますが、スサノオが助けたのは農民ではなく、砂鉄集団だったといいます。八岐大蛇に悩まされていたのは農民ではなく、砂鉄採りの集団で、八岐大蛇は先住民として出雲に住んでいた「海人族」だといいます(梅原猛『葬られた王朝』?)。

 いずれにしろ、朝鮮半島と日本南西部が文化圏として一体であった頃の「鉄」のロマンです。平戸に流れ着いた女真(満州)族の姫君を、その故地に送ってゆくという歴史ロマン『韃靼疾風録』を書いた司馬遼太郎ならではの話です。

タグ:読書
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