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毛利敏彦 明治六年政変(1979中公新書) (1) [日記(2019)]

明治六年政変 (中公新書 (561))  『素顔の西郷隆盛』に、征韓論は征韓論(明治六年政変)は、大久保、木戸、伊藤たちによる主導権回復運動だったのではないか?という記述があり本書を読んでみました。西郷が不平士族の不満をそらすために武力による征韓を企て、海外視察から帰った岩倉、大久保の反対にあって下野、明治10年の西南戦争に至る、というのが征韓論の教科書的説明です。

 本書はこの常識に疑問を呈し、岩倉使節団と留守政府、薩長閥を軸に、かつての盟友西郷と大久保が何故「征韓論」で対立し西郷は下野するに至ったかを解明します。

岩倉遣米欧使節の失敗
 この時期、岩倉使節団が欧米を回ったのは、「視察」とともに条約改正の下工作のためです。廃藩置県でやっと維新の基礎が緒に付いた時期に、政府首脳の半数が海外に出ることは常識的ではありません。
 元々大隈を長とする小規模な使節団が計画されていたようです。佐賀閥の大隈が外交において主導権を握ることを危惧する大久保が、岩倉を説いて使節団を改組拡充したのが岩倉使節団だと言います。さらに、木戸を海外に連れ出して政局から外し、廃藩置県後の改革を西郷託した、これが遣米欧使節のもう一つの真相だと言うのです。木戸は神経質で小うるさい小姑のような性格だっと云いますから、木戸を棚上げしたわけです。
 新しい政策は一切やるな、と一札を取られたにも関わらず、留守政府は府県の統廃合(3府72県)、学制の制定、身分制度撤廃、 陸軍省・海軍省の設置、国立銀行条例、徴兵令、地租改正条と次々に改革を推し進めますが、裏にはこうした密約があったのです。

 使節団はアメリカに到着し大歓迎を受けます。気をよくし条約改正もイケルと考えた使節団は、条約改正の全権委任状を取りに大久保、伊藤を一時帰国させます。政府はこの委任状を出さず米政府も条約改正に難色を示し、使節団は何の成果もあげず、米国に6か月も滞在したため予定は大幅に狂う結果となります。
 通説では、欧米文明を目の当たりにした岩倉使節団の一行は、日本の近代化のためには外征よりも内治を優先し征韓論に反対した、ということになっています。著者によると、それは勝者の事後的正当化だと云います。

留守政府の改革実施と権限の強化
 この間留守政府は、封建的身分制度の撤廃、司法制度の確立、地租改正、徴兵令と、封建制度を根本からひっくり返す施策を次々と発布します。留守政府は目覚ましい成果を上げ、改革実施によって権限は強化されます。一方の使節団は1年10か月も日本を空け外交は失敗、派遣団と留守政府の実力の差が開いてしまいます。

 留守内閣も安泰だったわけではなく、大蔵省の予算問題で混乱が生じます。明治6年の各省の予算請求を井上薫、渋沢栄一(いずれも長州)が半減させ、汚職事件(山城屋事件)を起こした山県有朋(長州閥)の陸軍省のみ全額を認めたことで、江藤は抗議の辞表(弾劾書)を出し政府は混乱します。この大蔵省問題をきっかけに、正院、左院、右院で構成されていた太政官の正院の権限を拡充し、後藤象二郎、大木喬任、江藤を参議に任命し正院に迎え入れます。これによって権力は正院に集中しす、べての権限を参議が握ることになります(太政官制潤飾)。つまり、大久保、木戸、伊藤等外遊組の政府内における相対的地位が低下し、西郷、江藤等留守政府側の地位が上がったわけです。

汚職事件
 明治六年政変の背景には、岩倉使節団、留守政府の改革ともうひとつ、長州系高官による汚職事件があります。山県有朋の関わった山城屋和助事件、三谷三九郎事件、井上薫、渋沢栄一の尾去沢銅山事件、槇村正直の小野組転籍事件です。司法制度の確立を推進した江藤と司法省は、これら汚職事件を厳しく追求し、長州閥にとって江藤は目の上の瘤となります。

 「明治6年政変」には、使節団の失敗と留守政府のめざましい改革、長州高官等による汚職事件という背景のもとに、大久保と長州閥よる、失地回復と江藤駆逐のクーデターだったいうのが著者の主張です。続きます。

征韓論年表2.jpg

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