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橋本大三郎 大澤真幸 ふしぎなキリスト教 ② (2011講談社) [日記(2019)]

ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)  続きです。イエスには、史的イエス「ナザレのイエス」と、宗教上の「イエス・キリスト」があります。キリストというのは救世主ということで、「ナザレのイエス」を救世主と考えた信仰上のイエスが「イエス・キリスト」。この二人のイエスを分けて考える必要があります。
 ユダヤ教は、異民族の侵入や戦争で共同体が壊れ、「ぐちゃぐちゃ」になった社会から生まれた弱者の論理として登場した(とは書いていませんが)、これが個人的な理解です。ぐちゃぐちゃになっても、人間が人間らしく連帯して生きていくにはどうしたらいいかの戦略が、ヤハウェを信仰する一神教、ユダヤ教。預言者イエスが現れ、ユダヤ教を改革してキリスト教を打ち立てま。

ナザレのイエス
 いよいよイエスの登場です。福音書には、イエスの事蹟(伝道)と死と復活が書いてある。イエス(ナザレのイエス)は実在したのか?、福音書以外歴史的な証拠はないらしい(復活したから墓も無い)。橋爪さんによると、四つの福音書に記されたイエスの言葉は、

比喩が豊富で、生き生きとした印象を受ける。ひとりの人間がそこにいるという手応え、ありありとした人格の一貫性を感じる。イエスが実在しないのに、福音書の著者たちがよってたかって創作したと考えるほうが、よっぽど不自然だと思うのです。

 まぁいたことはいたらしい。イエスは、ナザレで生まれた大工の息子。ユダヤ教を学んでナザレを出、洗礼者ヨハネの洗礼を受け彼の教団に入る。その後教団を離れ弟子を連れてガラリア湖周辺で伝道し、パリサイ派(律法派)、サドカイ派(祭司)とトラブルを起こし、エルサレムで逮捕され死刑となった。これが史的イエスの実像らしいです。新訳聖書に記される処女懐妊、ダビデに連なる家系、イエスがメシア(救世主、キリスト)であること、死後の復活、などは旧約に合わせた脚色。

ユダヤ教の革新運動
 当時のユダヤ教の宗教者は、儀式を司る祭祀(後のサドカイ派)、律法学者(後のパリサイ派)、預言者があり、イエスは、ヤハウェの言葉を伝える預言者の系譜と考えられます。イエスはガラリヤ地方でどんな活動をしていたか。預言者が神の言葉を直接伝えるのに対し、イエスは自分の言葉で、例えば比喩を使って神の言葉を伝え、(旧約)聖書をたぶん独自の解釈で説いていたユダヤ教の革新運動らしい。
 律法(神の言葉)が固まって(旧約)聖書として完成されると、預言者が現れて新たに神の言葉を伝えると律法学者は困るわけで、パリサイ派は預言者を弾圧し裁判に訴え処刑してしまう。洗礼者ヨハネも殺されています。イエスは自分の言葉で語りおまけに奇跡まで起こしているので、神を騙り神を冒涜した罪でパリサイ派、サドカイ派の牛耳る「最高法院」で裁判にかけられ死刑となります。イエスは自分をメシア=神の子とは言っていないが、民衆はイエスをメシアと呼びイエスもそう呼ばれることを否定しなかった?。
 バビロン捕囚の前後からメシア(救世主)信仰が生まれる。ユダヤ民族の苦境を救ってくれる人物がヤハウェによって遣わされるというメシア待望信仰が起こる。メシアの別名は「人の子」。民衆はイエスこそがメシアではないかと言い、イエス自身も、人間の子と救世主の両義性としてこの「人の子」を使っていたらしい。

 イエスが十字架にかけられあっけなく死に、旧約の伝承にある復活もなかった、イエスはメシアではなかったと、イエスグループは求心力をう失い十二使徒、信者はバラバラになります。
 これがイエス・キリストではない「ナザレのイエス」の生涯。

イエス・キリスト
 ユダヤ教は、神との契約である厳格な律法を守ることを説きます。律法はユダヤ民族には通用するが、イエスの説法を聞く非ユダヤ人には当てはまらない。で、律法の代わりにイエスが説いたのが愛、愛が神との契約書になった(らしい)のですが、ピンとこない。「汝の隣人を愛せよ」というアレです。キリスト教がユダヤ教から離陸するためには、ローカル・ルールを脱してグローバルなルールを作る必要があったわけです。で律法を破棄したかと言うと、旧約という形でこれも残している。

 イエスが現れてその教え(ユダヤ教のイエス・ヴァージョン)は非ユダヤ民族の間にも広まります。ユダヤ教の神でユダヤ民族と契約しているヤハウェは、非ユダヤ民族も救う必要が出てきた。そこでヤハウェはルールを変えて、ヤハウェを信仰する個人を救うことにした。ユダヤ教がキリスト教に衣替えした転換点がイエスの死と復活。イエスは人間(人類)の罪を背負って磔刑となった、という理屈が出来上がります。これをでっち上げたのがパウロ。何故人間の罪を背負って死ぬことが贖罪となるのか新訳にも書いてないらしい。橋爪さんはこれを「眼には眼を」の同害報復説で説明します。
 人間は罪があるから、罰としてヤハウェに破滅させられてしまう。ところが、人間として生まれたイエスが「私が替わって死にます」と人間の罪を引き受けて、十字架で死んでしまった。すると、処罰がすんでしまって、人間を罰するわけにはいかない。人間は罪があるままに赦されるのです。

 イエスが死ぬことで、ユダヤ民族救済の契約が人間個々人の救済の契約となり、キリスト教が誕生すわけです。
イエスは神の子だったんじゃないですか?と大澤さんが突っ込みをいれると、

たしかに、マッチポンプのようにもおもえるけれどそれが神の計画であり、イエスをこの世に送った理由ですよ。

大澤さんの感想はというと、

…ちょっとピンとこないところもある。ピンとこないというのは、あえて言うと、神様というのはなかなユニークな性格の方ですね、ということなんですが(笑)。
 こういう辺りが対談の面白いところ。私もピンときませんが。

 聖書の知識が無いのでこの第二部はピンときませんが大雑把に言うと、
 ユダヤ教の預言者「ナザレのイエス」は、自らの言葉で神について語りかけ、律法を愛に置き換え、非ユダヤ民族を含む民衆はイエスを支持した。自らを「人の子」(ユダヤ民族の間では救世主)と称し、イエスを救世主とするこのグループは勢力を持つようになった。これを無視できないパリサイ派(サドカイ派も)は、イエスを神を騙り民衆を惑わした罪で訴え、自ら主催する法廷で死刑を宣告。ユダヤ属州の行政を司るローマ帝国はイエスを磔刑にした。イエスが死んでも彼の残した思想は生き残り、パウロによってキリスト教が体系化され組織化され普遍的な宗教に脱皮した。

 ということになります。いまひとつピンときません…。第三部に続きます

タグ:読書
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