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イザベラ・バード 朝鮮紀行 ③ (1998講談社学術文庫) [日記(2019)]

朝鮮紀行 (講談社学術文庫)

朝鮮奥地紀行〈1〉 (東洋文庫)

 続きです。李氏朝鮮には革命が起こらなかった、というところまで来たわけです。『坂野潤治、大野健一 明治維新』によると、明治維新を準備した背景には、以下のような江戸社会の成熟があります。



1)政治的統一と安定
2)耕作面積と生産性の両面における農業の発展
3)物流システムの発展と全国統一市場の形成
4)商業・金融の発展、富裕な商人層の台頭
5)手工業の発展(薩摩藩、高松藩の砂糖、長州藩の紙、蠟、秋田藩の絹織物など
6)地方政府(藩)による産業振興
7)教育の普及(寺子屋、藩校、松下村塾、適塾、鳴滝塾など私塾と識字率)

 『朝鮮紀行』を読む限り19世紀末の朝鮮には、政治の安定は望むべくもなく、両班と役人の搾取のため、農民に耕作面積の拡張と生産性を上げるモチベーションは無く、物流は河川と牛馬、街道には橋も無く、塩と陶器などがあるものの産業と呼べるものがあったかどうかは疑わしい。科挙制度のため教育は両班層に限定され、一般庶民の教育については触れられていませんから、無かったのでしょう。

 商業、産業について、イザベラ・バードはこう記しています、

調査の結果、通常の意味での「交易」は朝鮮中部と北部のおおかたには存在しない。つまり、ある場所とほかの場所とのあいだで産物を交換し合うことも、そこに住んでいる商人が移出や移入を行うこともなく、供給が地元の需要を上回る産業はないのである。
・・・このような状況をつくった原因は、朝鮮馬一頭で10ポンドに相当する現金しか運べないほど貨幣の価値が低下していること、清西部ですら銀行施設があって商取り引きが簡便になっているのに、ここにはその施設がまったくないこと、概して相手を信用しないこと、皮革業に対する偏見、すなわち階級による偏見があること、一般に収入が不安定で、まったくもって信じられないほど労働と収入が結びつかないこと、そして実質的に独占しているギルドがおびただしくあることである。

地方行政については、
当時はひとつの 道 に44人の地方行政長官がおり、そのそれぞれに平均400人の部下がついていた。部下の仕事はもっぱら警察と税の取り立てで、その食事代だけをとってみても、ひとり月に2ドル、年に総額で39万2,400ドルかかる。総勢17,600人のこの大集団は「生活給」をもらわず、究極的に食いものにされる以外なんの権利も特典もない農民から独自に「搾取」するのである。

 その方法をわかりやすく説明するために、南部のある村を例にとってみる。電信柱を立てねばならなくなり、道知事は各戸に穴あき銭100枚を要求した。郡守はそれを200枚に、また郡守の雑卒が250枚に増やす。そして各戸が払った穴あき銭250枚のうち50枚を雑卒が、100枚を郡守が受け取り、知事は残りの100枚を本来この金を徴収した目的のために使うのである。

従って農民は、
搾取の手段には強制労働、法定税額の水増し、訴訟の際の 賄賂 要求、強制貸し付けなどがある。小金を貯めていると告げ口されようものなら、官僚がそれを貸せと言ってくる。貸せばたいがい元金も利子も返済されず、貸すのを断れば罪をでっちあげられて投獄され、本人あるいは身内が要求金額を用意しないかぎり 笞 で打たれる。こういった要求が日常茶飯に行われるため、冬のかなり厳しい朝鮮北部の農民は収穫が終わって二、三千枚の穴あき銭が手元に残ると、地面に穴を掘ってそれを埋め、水をそそいで凍らせた上に土をかける。そうして官僚と盗賊から守るのである。

 日本の助言で議会も開催されますが、

議会は1894年7月30日にはじめて召集され、同年10月29日に最後の召集が行われた。報酬を支払っても、勅令を発しても、定数を確保することができず、また議会運営に積極的だった数少ない議員のひとり、法務次官が最後の議会の開かれた二日後に反動派の手先とおぼしい人物に暗殺されたあとは事実上消滅した。

 改革、革命が起こるためには社会の成熟が必要であるなら、朝鮮には無かったということです。「甲申政変」などがあったものの内部からの変革は起きず、革命が起きる環境も、改革の意思もありません。国王・高宗自らがロシア大使館に逃げ込む李氏朝鮮は、いずれ日清露のいずれかに飲み込まれる運命にあったと思われます。イザベラ・バードの処方箋は、

(わたしは)朝鮮人の前途をまったく憂えてはいない。ただし、それには左に掲げたふたつの条件が不可欠である。
 Ⅰ 朝鮮にはその内部からみずからを改革する能力がないので、外部から改革されねばならない。
 Ⅱ 国王の権限は厳重かつ恒常的な憲法上の抑制を受けねばならない。

 結果的に朝鮮は1910年に日本に飲み込まれます。イザベラ・バードは1897年に朝鮮を去りますから日韓併合についての記載はありませんが、彼女が日本をどう見ていたか、

(日清)戦争を起こした表向きの理由は、日本政府は慎重を期してそれに固執しているが、日本にとって一衣帯水の国が失政と破滅の深みへと年々沈んでいくのを黙って見すごすわけにはいかない、国政の改革が絶対に必要であるというものだった。
・・・日本には朝鮮を隷属させる意図はさらさらなく、朝鮮の保護者としての、自立の保証人としての役割を果たそうとしたのだと信じる。

と好意的なものです。『朝鮮紀行』を読む限り、朝鮮は併合に値する国であったとは思われませんが、彼女が想像する隣国の「よしみ、誼」などではさらさらなく、日本帝国はロシア南下の橋頭堡、防壁とするため朝鮮を植民地化したかったわけです。日本には『赤蝦夷風説考』や「文化露寇(1806)」に始まるロシアの侵略を恐れる伝統があります。征韓論に始まる日清戦争、日韓併合、日露戦争も、そうした文脈で理解することができます。

わたしが朝鮮に対して最初にいだいた嫌悪の気持ちは、ほとんど愛情に近い関心へと変わってしまった。また今回ほど親密でやさしい友人たちとめぐり合った旅はなく、今回ほど友人たちに対して名残おしさを覚えた旅もなかった。

 イザベラ・バードは1897年3月に朝鮮を去ります。
朝鮮紀行  

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