SSブログ

角田房子 閔妃暗殺 ① (1988新潮文庫) [日記(2019)]

閔妃(ミンビ)暗殺―朝鮮王朝末期の国母 (新潮文庫)  イザベラ・バード『朝鮮紀行』で、英国人旅行家がの眼に李朝末期の朝鮮をがどのように映ったかが分かりました。大院君と閔妃の政争、壬午軍乱から甲申政変、甲午農民戦争 、日清戦争に至る経緯を知りたかったので、角田房子『閔妃暗殺』を再読しました。

大院君(興宣大院君)
 高宗の父親で閔妃と権力闘争を演じ、近代朝鮮の混乱を作った元凶のような人物です。高宗以前の朝鮮の病弊は、安藤金氏の勢道政治と貴族である両班(文班・武班)階級の党争で、いずれも国民そっちのけで賄賂、売官で私利私欲に走った政治であり、農民一揆も頻発したようです。
 大院君、本名は李昰応、祖父が李朝22代王の弟という王族で、安東金氏の勢道政治のもとで不遇を囲っています。”あいつは出来る、傑物”と噂されると金氏一族に潰されますから、昰応は酒色にふけり、王族であれば足を踏み入れることもない酒家に入り浸り、金氏一族の邸に行って金を無心するなど、”宮乞人”と呼ばれていた。つまり乞食貴公子を装い、裏では王族が勢道政治から権力を取り戻す手を着々と打っていた、それが後の大院君の若き日の姿。1863年、王が世子を残さずに死ぬと「世継はどうするんだ」ということになり、水面下で手を打っておいた第24代朝鮮王の実母・趙大王大妃から自分の次男を後継に指名させます。次男は11歳、趙大王大妃に「あんたが執政となって政務を取れ」と言わしめ、見事朝鮮国の最高権力者に上り詰めます。手品です。

 1864年に権力を握ると、汚職官吏の首を切り、法典を整備し税制改革を行い、賄賂政治の元凶である両班を抑え込みます。金氏一族を追い出し、結局勢道政治を始めたことになります。内政改革は意欲的ですが、大院君は保守で”衛正斥邪論”朱子学を第一義とする攘夷主義者。鎖国政策をとり、キリスト教を弾圧、フランス人宣教師9人と信者8000人を死刑にし、フランス軍に砲撃を加えアメリカ商船を焼き討ち。

(キリスト教弾圧は)天主教という宗教を禁じただけではなく、天主教を信奉する欧米列強のすべてを否定するものであった。その結果、各先進国の社会制度や科学技術に対する研究心までが、斥邪思想によって圧殺された。こうして次第に進んでいた西学(西洋の学問、宗教などの研究)の道が絶たれたことは、朝鮮の近代化を遅らせ、やがて世界の体制に対処する準備不足のまま、開国という新事態をむかえる結果となる。

 大院君は、長年の勢道政治下に弱体化した王室の権威を高め、中央集権的な君主制を敷くことによって、対内対外の危機を乗りきろうとします(但し、その政治思想が朱子学であったことが足枷となった)。権威の象徴である景福宮(文禄の役で焼失)再建に着手し、農民を使役、財源を確保のため、売官、田税引き上げ、通行税、粗悪貨幣鋳造などで、庶民は困窮を極め特権を取り上げられた両班の反発を招きます。これが後の閔妃のクーデターにつながったわけです。鎖国をして外国を遮断し古来の伝統を護っていれば、朝鮮=自分の権力は安泰だと考えます。兵士には麻布で作った防弾服を着せ、鶴の羽で造った”鶴羽船”で欧米列強と戦おうとしたことに、大院君の固陋振りを見ることができます。
 李朝末期の混乱を、大院君ひとりの責任を押し付けるのは気の毒。もとはと言えば安東金氏の勢道政治と、イザベラ・バードが『朝鮮紀行』で書いた両班階級の汚職と農民搾取にあります。この政治の背後には朝鮮の国教儒教(朱子学)があります。儒教には民を統治する政治イデオロギーがあり、朝鮮の伝統的なシャーマニズムは祖先崇拝を第一義とします。これが一族の結束のために身内を取り立てる勢道政治を生み、民を「愚民」とする支配階級の奢りを産んだのではないかと考えます。
 日本にもの勢道政治に似た摂関政治がありましたが、10,11世紀の話。キリスト教弾圧、鎖国もあり、幕末には外国船を砲撃していますから似たようなものですが、18世紀に大院君や閔妃の勢道政治は無く、攘夷思想や蘭学は体制変革の原動力となります。

閔妃
 もうひとりの主役が高宗の后閔妃です。勢道政治で王権をないがしろにされた大院君が、高宗の后とする第一要件は係累の無いこと。大院君夫人(閔氏)の推薦した閔妃は孤児で、おまけに才色兼備という大院君の望みにかなう后候補。1866年ふたりは結婚、高宗14歳、閔妃15歳の姉さん女房。ところが高宗は側室や宮廷の官女を寵愛し閔妃には無関心、閔妃は孤閨を余儀なくされます。この間閔妃は読書で寂しさを紛らわせますが、愛読書は歴史書の『春秋左伝』だったといいます。高宗は決断力の無い覇気に乏しい人物。イザベラ・バードによると、

国王は背が低くて顔色が悪く、たしかに平凡な人で、・・・落ち着きがなく、両手をしきりにひきつらせていたが、その居ずまいやものごしに威厳がないというのではない。国王の面立ちは愛想がよく、その生来の人の好さはよく知られるところである。会話の途中、国王がことばにつまると王妃がよく助け船を出していた。・・・王家内部は分裂し、国王は心やさしく温和である分性格が弱く、人の言いなりだった。・・・その意志薄弱な性格は致命的である。

だったそうで、閔妃は政治の実権が大院君から高宗移った時、高宗を助けるために着々と布石を打っていたわけです。

王宮とは闘争の世界だ、と見きわめている閔妃は、夜ごとの鏡の前の自問自答で、その闘争に勝ちぬく手段を検討する。こうして彼女は勉学に励む決意をかためたーーと私には想像される。

 夫が他の女性にうつつを抜かしている時に、将来を見据え『春秋左氏伝』を読む閔妃にはけっこう怖いものがあります。側室が世子を産み閔妃の地位は不安定となり、彼女は閔氏一族を次々と要職に付け権力基盤を固めます。閔妃にもやがて第一子が誕生しますが死亡、子供の供養のため彼女はシャーマニズムの世界に入り浸り国庫を濫費したといいます。こうした閔妃の努力が実り後高宗は妻に傾倒し、閔妃は名実とも后の地位を固め、大院君に冷遇されていた大院君の兄と長子を自陣営に率いれ、反大院君派を形成します。1873年、閔妃一派によるクーデタが起こり(高宗の親政と大院君追放)、閔氏の勢道政治が始まります。閔妃は、高宗が重臣を接見する屏風の後ろから高宗をコントロールする政治を開始します。

王は自ら建白書を読み・・・時々後ろの屏風の方をふり返りながら、儒生たちの処分を命じた。屏風の内には、王の発言を助け導く閔妃が控えている。これが”高宗親政”の実体であることを、閣僚たちはすでによく知っていた。

見てきたような話ですが、甲斐性なしの夫を支えるしっかり者の妻閔妃の姿が目に浮かびます。この後どうなっかというと、

1873:閔妃がクーデターを起こし大院君追放、大院君派が閔妃の住む景福宮を爆破
1874:大院君派が閔妃の義兄を爆殺
1881:大院君クーデター未遂事件
1882:大院君が壬午軍乱を煽動、清が大院君を幽閉
1884:甲申政変(開化派によるクーデター)
1885:大院君帰国、露朝密約事件
1894:甲午農民戦争(裏に大院君あり) →日清戦争
1895:閔妃暗殺
1897:大韓帝国成立
1898:大院君死去

 1864年に大院君が政治の世界に登場し2年後に閔妃が高宗と結婚して以来、朝鮮の歴史はこのふたりの政争とそれによって引き起こされる事件と事変の連続です。閔妃の存在が混乱を引き起こしたわけではないでしょうが、「牝鶏が時を報ずれば国や家が滅びる」ももっともなことかも知れません。この後1910年に朝鮮は日韓併合で日本に飲み込まれます。大院君vs.閔妃の混乱に日本がどのようにつけ入り、何故閔妃は暗殺されたのか、その辺りを読んでみます。
 ②へ

nice!(5)  コメント(0) 
共通テーマ:

nice! 5

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。