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角田房子 閔妃暗殺 ③(1988新潮文庫) [日記(2019)]

閔妃(ミンビ)暗殺―朝鮮王朝末期の国母 (新潮文庫)  続きです。
甲申政変(1884)
 壬午軍乱の「済物浦条約」によって朝鮮上流階級の子弟が日本に留学します。日本の近代化を目の当たりにした彼らは、金玉均、朴泳孝等急進的開化派が中心となって、明治維新をモデルとした新政権樹立を目指します。金玉均は、福沢諭吉、征韓論に破れて野にあった後藤象二郎と気脈を通じクーデターを企てます。当時の朝鮮は、清の送り込んだ袁世凱と、元ドイツ天津領事のメレンドルフが閔妃一派と結んで勢力を広げています。メレンドルフは税関を握り、悪貨を鋳造して富は閔妃に流れ込み、相変わらずの国民を置き去りにした政治によって、インフレで庶民の生活は苦しくなる一方。

 清の駐留軍の半数が引き上げたのを機に、金玉均は日本駐留軍を頼りにクーデターを決行します。クーデター派をは金玉均、朴泳孝を中心に陸軍に留学していた将校14人と開化派が加わった四十数名。彼らが頼みとするのは公使館日本兵150、一方の清の兵は1500。王宮にダイナマイトを投げ入れ、政府要人を暗殺し、事大党と清国軍の反乱と考えた高宗は日本軍の出動を要請します。一方、開化派のクーデターと知った閔妃は清国軍の出動を要請します。任午軍乱でもそうですが、朝鮮は自ら戦わず常に宗主国清や日本に援助を求めます。1500の清国軍の前にクーデターは文字通りの三日天下に終わり、金玉均等は日本に亡命します。閔妃の怒りは凄まじく、クーデター派は家族も三等親までも処刑されるという苛烈なもので、日本亡命者には刺客が送られ、金玉均は政変10年後の1894年に上海で射殺されます。

 政変によって公邸を焼き討ちされ自国民を殺された日本は、朝鮮と漢城条約、清とは天津条約を結び決着を見ますが、天津条約の”朝鮮に出兵する際には相互が通告し合う”という条項が後の日清戦争の引き金となります。壬午軍乱、甲申政変の2度の失政によって朝鮮における清の影響力は増大し、主権を失ったも同然の朝鮮は、第三国ロシアに接近し露朝密約事件を起こします。清は親露政策を牽制するために、1885年壬午軍乱で天津に拉致した大院君を帰国させます。大院君が復活し次は閔妃とどんな権力闘争劇を見せてくれるのか?と期待するほどに、朝鮮の歴史は面白いです。そこにはむき出しの権力欲と憎悪しか無く、政治というものはありません。その権力闘争に宗主国・清、日本、ロシアが絡むわけですから、面白さ倍増。

甲午農民戦争(1894)→日清戦争
 1894年2月、全羅道を中心に甲午農民戦争が勃発します。開国によるインフレに干ばつが追い打ちをかけ、疲弊した農民による反乱が各地に起こり、全羅道では、汚職で悪名高い管理が税を滞納した農民を極刑に処したことをきっかけに、大規模な農民一揆が起こります。壬午軍乱も汚職が引き金ですから、この国の病弊は根深いものがあります。これを東学党の全琫準が指導して全羅道の首都・全州一体を占拠します(5月)。朝鮮政府は一揆を鎮圧出来ず、またも宗主国清に救援を求め、日本政府も天津条約に基づいて朝鮮に派兵します。日本は、壬午軍乱と甲申政変で後退した朝鮮のヘゲモニーを取り戻す絶好の機会と考えたわけです。李朝の政争に日清露が加わり、さらに農民が反旗を翻すのですから、朝鮮史はドラマです。

 日本政府は6/2には混成旅団(8,000人)を派遣する方針を決定し、6/5には大本営を設置していますから清とことを構える戦争は前提。6/8に清国兵2800が牙山に上陸したため、6/11には大鳥圭介公使が兵400とソウル入城、6/16には混成旅団の半数が仁川に上陸と完全に戦争モード全開。6/11には東学党と農民が全州を退去(全州和約)していますから農民戦争は終わっていますから、仁川上陸は日本の侵略です。日本は、反乱鎮圧を機に朝鮮に出兵し、武力を背景に親日政権を樹立、清に代わって半島に覇を立てようとしたわけです。そのために清国の反対を押し切って大院君を担ぎ出し傀儡政権を発足させ、新政権に清軍を掃討するよう依頼させ、8月1日に日清戦争が勃発します。日清戦争を日本の世論はどう見ていたのか?、

 日本人のほとんどすべてが、これ(日清戦争)を”義戦”と考えていた。長年にわたり弱い朝鮮をいじめてきた横暴な清国を懲らし、朝鮮の独立を助けるため、力を貸そうーーというものである。
 ・・・金玉均や朴泳孝ら独立党の目的は内政を刷新し、清国との宗族関係を断ち切って朝鮮の自主独立を達成することであった。そのために彼らは日本の支持、協力を期待したのだが、当時の日本にはまだ清国と戦う力がなかったーーといういきさつが”義戦”の前提になっている。ともあれ、甲申政変はその後の日本の朝鮮干渉に道徳的な色をつけ、また国権拡張論者に夢をいだかせることにもなった。

 政府は侵略を意図し、国民はこれを義戦と考えていたようです。日本は、甲午農民戦争をダシに朝鮮に出兵し、日清戦争を起こして清から朝鮮を切り離し日本の支配下におきます。侵略には違いないわけですが、壬午軍乱→甲申政変→甲午農民戦争を見てくると、当事者能力を欠いた朝鮮が自ら招いた結果とも言えるでしょう。

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