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呉 善花 攘夷の韓国 開国の日本②--北九州、出雲、相模・武蔵 (1996年文藝春秋) [日記 (2020)]

攘夷の韓国 開国の日本 続きです
北九州(渡来 →さすらい)
 著者は、済州島出身で日本に帰化した現代の”渡来人”です。自身の経験から、日本に住み着いた来た外国人(渡来人)は、「渡来 →さすらい →日本化 →土着」の4つ過程を経てこの国に定着するという仮説をたてます。著者は、根の国・底の国に持ち込まれたもろもろの禍事・罪・穢れをさすらって失うという速佐須良比売神(はやさすらひめ)に故郷を捨て倭国にさすらう自己を重ね、韓国から日本へと流れ、新宿・赤坂・上野などの韓国クラブで働く彼女たち(『スカートの風』?)を投影します。このサスラ姫から宗像大社の三女神、辺津宮の市杵島姫神(イチキシマヒメ)、新羅王の子である天之日矛(あめのひぼこ)の妻となったアカルヒメ、日本から済州島に渡った三女神に思いを馳せます。著者は、古代には対馬海峡、玄界灘を渡って半島と日本を往来した人々の想いが、宗像三女神、アカルヒメ、済州島三女神に結実したと考えます。なかなかロマンティックで、この日韓関係の論客は詩人でもあったわけです。

出雲(日本化)
 北九州で渡来人の「渡来 →さすらい →日本化 →土着」過程の「さすらい」を考えた著者は、出雲のスサノオ、オオクニヌシに「日本化」を見ます。スサノオはアマテラスの弟ですが、新羅に渡ってのち出雲に現れますから、渡来人のバリエーションです。スサノオをめぐる伝承、神話には韓半島が色濃く投影され、スサノオを祀る神社は唐国新羅神社などの名を持つことから、「スサノオ渡来人説」があります。司馬遼太郎は、『砂鉄のみち』(街道をゆく7)でスサノオと出雲に渡った韓半島の砂鉄集団との関係を示唆し、梅原猛は「出雲王朝」の存在を唱え、渡来系の集団の存在を説いています。
 スサノオは、ヤマタノオロチを退治し地元の豪族の娘クシナダヒメを妻に迎える神話を、渡来人の日本化の過程と考えます。スサノオの6代後の子孫オオクニヌシは、スサノオを渡来1世とするなら、(在日)2世、3世(実際は6世?)に当たります。出雲王朝を建て国譲りをするオオクニヌシは、世代へ経て日本に同化し日本の歴史に組み込まれたことになります。これは、在日三世の鞍作止利が、日本的感性で飛鳥寺や法隆寺の仏像を造ったことと同じ位相だということです。

相模・武蔵(土着)
 著者は、埼玉県日高市の高麗町を訪れ、渡来人の「土着」を考えます。武蔵国には、今でも渡来人の末裔がいるわけでしょうが、1300年の時間に晒されて日本に同化した彼らに渡来人の意識はなく、高麗町という地名と、高麗山、高来(麗)神社が祖先の遠い記憶として残っているいるだけです。当たり前といえば当たり前の話しですが、現代の渡来人である著者は「高麗町」で感慨深にふけることになります。

 著者ははるか古代の渡来人に思いを馳せ、武蔵国高麗郡が成り立つ7~8世紀の渡来人の移住記録を『古事記』『日本書紀』から拾い上げます。

665(天智4):百済人百姓男女400余名を近江国神前郡に住まわせる
666(天智5):百済人男女2000余名を東国に住まわせ三年間官食を支給
669(天智8):百済人男女700余名を近江国蒲生郡へ移住させる
684(天武13):百済人23名を武蔵国へ住まわせる
685(持統称制):高句麗・百済・新羅・の百姓男女および僧尼62名を筑紫太宰が朝廷に献上
687(持統元):高句麗人56名を常陸へ、新羅人14名を下毛野へ、新羅人22名を武蔵へ住まわせる
689(持統三):渡来してきた新羅人を下毛野へ住まわせる
690(持統4):新羅人14名を武蔵へ、新羅人若干名を下毛野へ住まわせる
716(霊亀2):甲斐・駿河・上総・下総・常陸・下毛野の高句麗人1799名を武蔵へ移して高句麗郡を設置
758(天平宝字2):新羅人74名を武蔵国に移して新羅郡を設置

 これは、韓半島から人々が倭に移住した記録ではなく、大和朝廷が半島からを韓族(漢族)を「受け入れた」記録だといえます。

韓半島から日本への渡来の流れの中で、いかに亡命者・難民の流れが太いものであったかは、次の年表からはっきり浮かび上がってくる。
①紀元前後(韓半島南部の韓族系の者たち)
 紀元前108年、漢が韓半島北部から南部に賭けて侵出し楽浪郡はじめ五郡を設置
 205年、漢が帯方を郡設置
②四世紀~五世紀初頭(楽浪郡・帯方郡在住の漢族や韓族、百済人・伽耶人)
 313年、高句麗が楽浪郡・帯方郡を滅ぼす
 369年、倭軍が百済救ため出兵
 391年、倭軍が百済・伽耶・新羅に侵攻(好太王碑文)
 400年、高句麗が南下し伽耶を攻撃
 404年、倭軍が高句麗軍と戦闘し敗退
③五世紀後半~六世紀(百済人技術者、新羅人・高句麗人・伽耶人)
 475年、高句麗が新羅に侵入
 532年、新羅が伽耶の金官国を領有
 554年、百済の聖王が新羅との戦闘で戦死。倭軍が百済救援に出兵
 562年、新羅が伽耶を併合(日本府の消滅)
④七世紀後半(百済や高句麗からの亡命者、新羅人・唐人)
 660年、百済が唐・新羅連合軍に敗れる
 663年、倭軍が白村江の戦いで唐軍に敗れる。百済の滅亡
 668年、高句麗が唐・新羅連合軍によって滅ぼされる
 674年、唐が新羅を攻撃。後、唐軍が韓半島から撤退する
 676年、新羅が韓半島を統一する
⑤九世紀半ば頃まで(帰化を希望してやって来た少数の新羅人や唐人)

 これを以って戦乱の半島から亡命者や難民が続々と日本にやって来たとはいえませんが、戦乱や国の滅亡によって、古くから交流のあった倭国に難を逃れた人々があったとしても不思議はありません(秦氏、東漢氏、西漢氏など)。そのなかには、スサノオのように日本から半島に渡った倭人も含まれていたでしょう。歴史に現れない無名の渡来人が相当数いたと思われます。
 楽浪郡などには漢民族が移住し、高句麗がツングース民族の国家であり?、半島そのものが漢人、女真人、渤海人など東アジアの諸民族の流入によって成り立っているとすれば、倭国もまた東アジアの南端でその影響を受けていたと考えられます。古代に国境はなかったわけですから。

韓半島はいったい、この1000年間でどれだけの亡命者・難民を生み出し日本に流出させたのか。どれだけの人材を切り捨て、どれだけの文化を灰燼に帰していったのだろうか。・・・日韓交流の歴史の大半は、実にこの激しく展開された1000年間の歴史に集約されている。以後の1000年の歴史とは比較にならない、濃密な文化的・人的な交流関係があったのである。

 と嘆息し、本書をこう締めくくります、

・・・政治的・民族的な優位性のモチーフを背景に潜ませた「日本文化のルーツ=朝鮮」説の展開が、日韓の文化的・人的な交流に有意な役割をはたすことなどあるわけがない。
 古代日本列島の渡来人たちがたどった心の足跡は、諸民族の融合というグローバルなテーマを喚起させてくれる未来の物語でもある。

確かに。情に流されたところもありますが、なかなか面白い本です。


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