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プレイディみかこ ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー(2019新潮社) [日記 (2020)]

ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー  イギリス人と結婚し、地方都市ブライトンで中学生のひとり息子を育てる日本女性のエッセーです。タイトルの意味は「ぼくは日本人と白人の混血で、それ故気分はチョッとブルーなんだ」ということでしょう。混血であることの生き辛さ、或いは多様性の話かと思ったのですが、それもあるのですが、語られるのは英国の格差と分断の話です。

元底辺中学校
 格差とは社会階層の格差、貧富です。財政赤字解消のために福祉・教育予算がカットされたためにこの格差が大きなり、移民問題がこの格差に絡んできます。保育士をしながら中学生の息子を育てる著者は、福祉と教育の場でこの格差に直面し、日本人とアイルランド人の混血であるこの少年はアイデンティーの問題に直面します。
 著者の住む地域には、個人が買い取った公営住宅と賃貸の公営住宅があり、さらに「坂の上の高層公営団地」があり、それがそのまま階層と貧富の差となっています。そこに住む子供たちの通う学校の格差となって現れています。学校にもランクがあるようで、著者の息子が通うのが「元底辺中学校」。義務教育ですから住む地域で通う学校が決まるようですが、居住区の格差が学校のランクにあらわれるようです。この「元底辺中学校」に通う少年と母親の話です。

誰かの靴を履いてみること
 期末試験の問題「エンパシー(empathy)とは何か」というをめぐる「誰かの靴を履いてみること』という章があります。

EU離脱や、テロリズムの問題や、世界中で起きているいろんな混乱を僕らが乗り越えていくには、自分とは違う立場の人々や、自分と違う意見を持つ人々の気持ちを想像してみるが大事なんだって。つまり、他人の靴を履いてみること

と少年は言い。母親はエンパシーとシンパシー(sympathy)の問題について考えます。辞書にあたり、シンパシーは「誰かをかわいそうだと思う感情、誰かの問題を理解して気にかけていることを示すこと」、一方のエンパシーは「他人の感情や経験などを理解する能力」という理解を得、エンパシーとシンパシーの差は、感情と動的な知的作業の差なのだと理解します。

EU離脱派と残留派、移民と英国人、様々なレイヤー(層)の移民どうし、階級の上下、貧富の差、高齢者と若年層などありとあらゆる分断と対立が深刻化している英国で、11歳の子どもたちがエンパシーについて学んでいるというのは特筆に値する。

 まさにこの「誰かの靴を履いてみること」がこのエッセーの主題です。

 制服を買えない子供のための制服リサイクルと、教育以前に福祉に取り組む教師の奮闘を描いた『ユニフォーム・ブキ』、絵本『タンタンタンゴはパパふたり』からLGBTに踏み込んだ『未来は君らの手の中』、公立校と私立校の格差を扱った『プールサイドのあちら側とこちら側』、等など興味深い話が詰まっています。

 日本に住んでいると感じませんが、世界では格差と分断が進み、それを煽るような政権が支持され格差と分断をさらに深めているようです。「誰かの靴を履いてみること」というフレーズは心に響きます。

タグ:読書
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