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嵐山光三郎 芭蕉という修羅 (1) 水道工事 (2017新潮社) [日記 (2020)]

芭蕉という修羅  先日NHKの『英雄たちの選択』に嵐山光三郎さん(その風貌からサンを付けたくなります)が出演されていました。テーマは当然「芭蕉」。番組でどなたが仰ったのか、芭蕉は若い頃に神田上水道修復工事の請負人をしていたという発言があり、光三郎さんが芭蕉の新刊を出版しているんだと読んでみました。
 嵐山光三郎さんには『文人悪食』『追悼の達人』『文人暴食』『文人悪妻』など軽妙なエッセーがあり、けっこう好きな「文人」です。『悪党芭蕉』という、俳聖の仮面を引っ剥がす名著がありますが、今度はエスカレートして「修羅」です。枯淡、漂白の詩人という顔の裏に、衆道だったりお妾さんとの間に子(次郎兵衛、芭蕉を看取った人物)まで成していて、『おくの細道』は仙台藩を探索する「隠密」活動だったという説もあり、なかなか一筋縄ではいかない人物のようです。

水道工事が本業である
 芭蕉が、江戸で水道工事請負人だったことは初めて知りました。延宝5年(1677年)から4年間神田上水道の修復工事を請け負ったという記録が残っているそうです。芭蕉がツルハシを振るってモッコを担いでいたわけではなく、町名主の以来で金を集め、人足を組織して改修工事をやったというのです。水道工事は幕府が町名主に命じ、芭蕉(当時は桃青)は町名主の下でこれを請け負ったのですが、土木工事や経理の知識がないと出来ません。芭蕉は何処でこれを学んでいたのでしょうね?。

寛文2年 (1662)伊賀上野の藤堂新七郎良精の嗣子・主計良忠(蝉吟)に仕える(俳号は宗房)
寛文6年 (1666)良忠没
寛文12年(1672)処女句集『貝おほひ』を上野天神宮(三重県伊賀市)に奉納
延宝2年 (1674)北村季吟から『埋木』(俳諧宗匠としての免許)を伝授される、江戸に下る
延宝3年 (1675)西山宗因の百韻興行に参加(俳号は桃青)、江戸デビュー
延宝4年 (1676)山口素堂と『江戸両吟集』刊行
延宝5年(1677)4年間神田上水道の修復工事を請け負う(惣奉行は藤堂新七郎良精)

 芭蕉が何故上水道工事という専門的な工事が出来たのかは不明ですが、1)かつて仕えた藤堂家は土木工事を得意としていた、2)主人であった良忠(蝉吟)を通じて工事の惣奉行・良精とコネがあった、3)江戸の俳壇を通じて有力町人に顔が売れていた、というのが著者の推理です。芭蕉は、町名主の小沢太郎兵衛(卜尺)の借家に住み、太郎兵衛の秘書のような仕事もしていたようです。芭蕉は事務も取れ計算にも明るい優秀な人物だったという記録もあるそうです(藤堂新七郎家で習い覚えた)。良忠没の没後、俳諧師として江戸で一旗挙げようという芭蕉を良忠の父良精が応援していた、という事情もあったようです。

 『貝おほひ』を引っさげて江戸俳壇にデビューし、俳句の宗匠としては食えないので、町名主の秘書をしていた。たまたま藤堂新七郎良精が神田上水道の工事の奉行になり、町人に顔の広い芭蕉を引っ張った。そういうことのようです。この水道工事が芭蕉に及ぼした影響は?ですが、公共工事を仕切るわけですから、幕府の末端行政組織に組み込まれたことになり、のちの深川隠棲へと繋がります。
 芭蕉が江戸で俳諧宗匠へと上昇するについては、藤堂家のバックアップがあります。藤堂家は大老・酒井忠清に繋がっており、この忠清が失脚し忠清に連なる勢力に粛清の嵐が吹き荒れます。たかが俳諧宗匠如きとは思うのですが、周りが心配して「ひとまずは姿をくらましていただきましょう」と芭蕉を深川に隠棲させとようです。隠棲した先が、深川一帯の土木治水工事の元締めで、水路を監視する伊奈代官の屋敷の長屋だったという辺りも意味深。町名主の小沢卜尺、幕府御用達川魚問屋の杉山杉風など芭蕉の周りには幕府の影があります。これで「芭蕉隠密説」に持ってゆこうという著者の目論みかも知れませんが。

万句興行とはなにか
 延宝6年(1678)芭蕉は万句興行を催します。万句興行とは俳諧師が集まって1万句を詠み神社等に奉納するイベント、宗匠となるためのデモンストレーションです。万句興行で有名なものが、井原西鶴が延宝元年(1673年)大坂・生玉神社で催した「生玉万句」。156名の俳諧師を生玉神社に集めて12日間かけた興行で、著者はこれを「パフォーマンス系俳諧ライブ興行」と呼び、必要経費は数千万円から1億円と計算します。成果を出版して元が取れるかどうか。続いて西鶴は1時間に100句10時間で千句を詠む一日千句興行を催し『俳諧独吟一日千句』を出版して成功をおさめます。質より量の俳句です。

 当時の俳壇には、和歌、謡曲などの古典を踏まえた作風の「貞門派」(松永貞徳)と、諧謔、言葉遊びを中心すると「談林派」(西山宗因)があり、芭蕉は貞門派から出発します。『貝おほひ』は一般受けする檀林派の諧謔を使った句集だったようです(現存しない)。遊里で使われる隠語めいた言葉、猥雑な句、縁語、掛詞を使って句の裏を読ませる享楽的な判詞があふれた俳諧。俳諧ライブとして観客を集めるには、この諧謔、言葉遊びの方が受けるため、西鶴は当然談林派。
 俳諧宗匠となるとどうなるのか。弟子を取り、句会を催して出座料を取リ、批評、添削して点料をとる、それを出版して原稿料を取るというビジネスとなります。後に浮世草子『好色一代男』『好色五人女』を出版して作家に転じた西鶴は分かりますが、推敲を重ねた『おくの細道』を遺した芭蕉も若い頃はギラついていたことになります。

 芭蕉が猥雑な句を詠み水道工事の請負人をしていたというのは、面白い!

続きます。

タグ:読書
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