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嵐山光三郎 芭蕉という修羅 (3) 奥の細道 (2017新潮社) [日記 (2020)]

芭蕉という修羅 芭蕉という修羅 (新潮文庫) map_okunohosomichi.gif
続きです。

おくのほそ道』とは何か
 いよいよ「芭蕉隠密説」の核心、『奥の細道』です。元禄2年(1689)3月、芭蕉は曾良を伴って江戸→日光→奥州→北陸→大垣という2千数百km、150日に及ぶ旅に出ます。『奥の細道』には曾良の記した『旅日記』がありますから、芭蕉創作の秘密が分かるようです。

 推敲に推敲を重ね、『おくのほそ道』は、旅を終えてから5年後の元禄7年(1694)4月に決定稿が出来上がります。同年10月12日に芭蕉は没し、出版されるまでにはさらに8年かかっています。推敲に5年をかけたのは、『おくのほそ道』を俳句と文章を融合させて「不易流行」「軽み」や美意識を注ぎ込んだ(文学)作品に仕上げる必要があったわけです。
 俳諧宗匠の風流の旅を表の顔とするなら、裏の顔は「隠密」。日光東照宮工事の動向と仙台藩内にくすぶる幕府への謀叛の動きの調査です。同行した曾良は、宝永6年(1709)に幕府の巡見使随員となって九州を廻っています。芭蕉が隠密であった証拠はありませんが、歌枕を巡る俳諧宗匠の風流な旅を隠れ蓑として幕府隠密が同行した、芭蕉はそれを十分承知していた。芭蕉自身が隠密であっても不思議ではありません。推敲に5年かけたのも、何処から突いてもボロが出ないようにする必要があったのかも知れません。

 芭蕉と曾良の向かった先は仙台。5大将軍綱吉の時代になっても、毛利、島津と共に仙台藩伊達家は幕府の仮想敵国。仙台藩は公称62万石実質100万石の大藩、幕府は仙台藩に公共事業を押し付けて富の蓄積を妨害します。元禄元年(1688)幕府は日光東照宮の修復を仙台藩に命じます。財政が逼迫して借財23万両の仙台藩に修復工事を押し付けるわけですから、幕府としては伊達家の内情が知りたかったのです。綱吉が在位29年間に改易した大名は、外様15家、譜代24家、計39家、隠密(巡見使)に大名家の内情を探らせ、瑕疵を見つけては取り潰していたようです。

 11月4日に仙台藩に工事が命じられると、12月4日、17日、1月17日、2月15日、と芭蕉庵では句会が催されます。句会にことよせた「隠密」の作戦会議だというのです。芭蕉の同伴者が路通から公儀隠密?曾良に変更されるのもこの会議です。「芭蕉隠密説」の本書ですからそうなります。
 芭蕉はまた、旅に出掛ける前に兄や何人かの友人に「3月には塩竈の桜、松嶋の朧月、あさかの沼の花かつみのが咲く頃、北国を回る」と手紙を書いています。著者はそんなに吹聴していいのだろうかと心配していますが、名所旧跡、西行や能因法師を持ち出して、この旅は隠密の探索旅行ではなく俳諧宗匠の物見遊山だと保険をかけたのだといえなくもないです。

春立る霞の空に、白川の関こえんと、そヾろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて取もの手につかず、もゝ引の破をつヾり、笠の緒付かえて、三里に灸すゆるより、松島の月先心にかゝりて、住る方は人に譲り、杉風が別墅に移る

日光
 『奥の細道』は最初から怪しい。2月出発の予定が3月にズレ込みます。日光の工事がまだ始まっていなかったからで、出発は工事開始にあわせるために遅れます。曾良の『旅日記』にあるように3月20日早朝、深川を舟で出発して千住に上陸し、26日まで2人は千住に滞在します。芭蕉一行は6日間滞在して、東照宮工事が始まる知らせを待っていた。『ほそ道』では3月27日の出発となっていますが曾良の『旅日記』には3月20日出発とある。芭蕉は千住に六泊したことを隠そうとして3月27日出発と書いています。深川を3月27日の早朝に出発してその日のうちに「漸 早加(草加)と云宿にたどり着にけり」と記していますが、実際に泊ったのは春日部。のっけからアリバイ工作?。

 ふたりは日光に向かいます。当時の日光は、仙台藩が修復工事を命じられるくらいですから、洪水と火災で荒れ果てており、観光にはふさわしくなかったはずです。日光にはわずか一泊しただけで20丁も離れた黒羽に、芭蕉の俳諧仲間がいたこともありますが、2週間も滞在しています。黒羽は交通の要衝で、仙台藩の日光修復工事の基地。この滞在は、曾良が日光奉行と伊達藩の確執を調べるためだっというのです。芭蕉の方は句会を催しています。

仙台から平泉
 5月5日、仙台に入ります。紹介状を持って訪ねていった仙台藩士も商人も留守。隠密の来訪を知って居留守を使われたんだろうということですが、後に別の藩士と商人によって仙台を案内されることにはなります。

芭蕉の仙台滞在は四泊五日だが、監視付きで観光案内のように案内され・・・五日目の朝は、これから向かう塩竈、松嶋、一関の旅宿への紹介状を渡された。ていねいに対応されて、一刻も早く仙台を出るようにうながされた。・・・謀反の動きはなく、芭蕉に危害を加えることもなかった。

 仙台滞在はわずか5日ですが、仙台に入る手前の須賀川に芭蕉は1週間滞在し句会を催しています。仙台藩に内通する須賀川の俳諧仲間は、芭蕉を足止めして仙台と連絡を取り、仙台藩は芭蕉対策を講じていたというのが著者の推理です。仙台藩は芭蕉と曾良が隠密であること知っており、それ故に丁寧に対応されたもののわずか5日で追い出されたわけです。『ほそ道』に記されたすべての行動が「芭蕉隠密説」に還元されるわけです。

 念願の松島で、芭蕉は句を詠んでいません。曾良の「松島や鶴にみをかれほととぎす」の句は芭蕉の代作(『ほそ道』にある曾良の句の多くは芭蕉の代作らしい)。著者は、芭蕉は意図して句を避け漢文調の地の文章だけで松島を際立たせたかったのだと想像します。

 松島から「道をまちがえて」石巻に至ります。石巻は仙台藩が江戸に運ぶ米三十万石の米の積出港で、これを見る必要があったのです。仙台で町を案内してくれた藩士や町人には石巻によるとは言ってなかったのでしょう、だから「道をまちがえて」と書く必要があったわけです。

 石巻から柳津、登米へ向かいます、

柳津から登米へ行き、宿を借りようとしたが泊めて貰えず検断(大庄屋)の家に泊めて貰った。なぜ北上川を歩いたのか。北上川流域は治水と開拓によって新田が作られ、伊達家の大穀倉地帯となっていた。芭蕉の探索の重要な地帯がここにあった。
六十二万石という仙台藩が新田開発によって実高がその二倍あるといわれるのは、北上川一帯の米作があるためだ。仙台を過ぎてからも芭蕉の調査はつづいている。

 登米で調査は終了します。登米から平泉に向かい、隠密仕事が終わってホッとしたのか、名句が生まれます、

 夏草や兵どもが夢の跡
 五月雨を降りのこしてや光堂

 
俳聖芭蕉などには目を向けず、「芭蕉は隠密だった」という異説だけに注目して読むと、芭蕉もなかなか面白いです。『ほそ道』は、高校生の頃に原文で読んだ唯一の古典で、もう一度普通によんでみようかと思います。

タグ:読書
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