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カズオ・イシグロ 日の名残り (1) (2001ハヤカワ文庫) [日記 (2020)]

日の名残り (ハヤカワepi文庫)   イギリスの貴族屋敷ダーリントン・ホールの「執事」の話です。
 第二次世界大戦後、ダーリントン・ホールの主が亡くなり、アメリカ人の富豪が屋敷を買い取って、スティーブンスは執事として新しい主人に仕えることになります。小説は、1920~30年代のダーリントン・ホールの栄光の日々を語るスティーブンスの独白です。それは同時に彼の執事としての栄光の日々を語ることでもあるわけですが、屋敷がアメリカ人の手に渡ったように、初老を迎えた彼自身の斜陽を語ることにもなります。
スティーブンス
 ダーリントン・ホールは、最盛期には28人もの使用人を抱え、50人もの客が入る宴会場を持つ大邸宅。ケインズ、H.G.ウェルズ、バーナード・ショーなどの著名文化人、チャーチル、ハリファックス卿、ドイツの外交官リッペンドロップなどの政治家が訪れ、第一次世界大戦後のヨーロッパの政治体制を決める重要な国際会議まで催されます。このダーリントン・ホールを取り仕切るのが執事スティーブンスと女中頭のミス・ケントンです。
 アメリカ人がダーリントン・ホールの主人となって使用人も減り、新たな女中頭が必要となった時に結婚で去ったミス・ケントンから手紙が届きます。彼女は夫との折り合いが悪く家を出たようであり、文面からはダーリントン・ホールに戻ることを望んでいる、スティーブンスはそう読み取ります。
 スティーブンスは、彼女を雇うため屋敷のあるオックスフォードシャーから南西部コーンウォール州まで、自動車旅行に出かけます。車中、執事としての来し方、ミス・ケントンとダーリントン・ホールで過ごした思い出が語られます。ミス・ケントンは、間違いなくこの小説のヒロインですが、スティーブンスの思い出の中の人物として描かれるだけ(最後の最後に登場)。執事と女中頭という単なる仕事上の関係かというとそうでもなく、それを超えた男女の感情があったようです。あえてその感情を押し殺すスティーブンス、その態度に戸惑うミス・ケントン。スティーブンスは40歳を、ミス・ケントンは30歳を少し超えた歳であり、使用人を監督する立場から踏み越えることが出来ません。おまけにステーブンスには名家の執事たる矜持と品格があるわけです。

 イギリスには執事という職能の「業界」まであり、優秀な執事だけが加入できる協会があり、『季刊 執事』という機関誌まである、ということになっています。そして、優秀な執事の要件は「品格」であることが繰り返し語られます。品格とは、もうひとつ分からないのですが 、名家に仕え、主人、執事ともに紳士であり、執事は主人を敬愛して仕えるというようなことのようです。名家とは、新興の富豪などではなく、英国の伝統に根ざした血統を指すようです。スティーブンスは、自身が当然名家に仕える品格ある執事であると思っています。

ダーリントン卿
 執事ですから主人に従うのが努めですが、主人と意見が合わなかった時どうするのか?。主人のダーリントン卿は政界の重鎮で、ヨーロッパの平和のためにドイツに過酷な「ベルサイユ条約」を緩和する「宥和政策」を推し進めるため、各国の要人をダーリントン・ホールに集め国際会議を開催します。結果的には、過酷な賠償金によって疲弊したドイツはナチズム台頭を許し、第二次世界大戦を起こすことになります。それは後の話し。国際会議ともなればスティーブンスの出番、多くの使用人を指揮してこれを成功に導きます。
 ダーリントン卿は「宥和政策」を推し進めるのですから、親ドイツ派。やがてファシスト党に近づき、ユダヤ人の女中を解雇するに至ります。スティーブンスは反対ですがやむなくこれを実行し、ミス・ケントンは猛然と抗議して自身も辞めると言い出します。主人に非があっても、執事は主人に従うべきなのか?という問題です。終戦後、ダーリントン卿は批判されますが、スティーブンスは卿の高潔な人格故に一貫して卿を擁護します。このあたりは、スティーブンスが誇る執事としての品格、時流に阿らない大英帝国の(伝統的な)保守性として理解していいのかどうか、分かりません。
 ダーリントン卿のモデルは、「ミュンヘン会談」でヒトラーに譲歩して宥和政策を進めたチェンバレンではないかと思います。

ミス・ケントン
 ダーリントン卿が、首相と外相、リッペンドロップ(駐英ドイツ大使)を屋敷に招き宥和政策を協議するくだりは小説の山場です。たまた屋敷を訪れていたジャーナリストは、卿はヒトラーに利用されている、ヒトラーの野望に荷担している、とダーリントン卿を敬愛しているスティーブンスに問い詰めます、

きみは平気かい、スティーブンス? ダーリントン卿が崖から転げ落ちようとしているのを、黙って見ているつもりかい?(ジャーナリスト)
申し訳ございません。何の事を言っておられるのか、私にはよく理解できかねます
私には、卿が高貴なる目的のために行動しておられるとしか考えられません。
私はご主人様のよき判断に全幅の信頼を寄せております。(スティーブンス)

 スティーブンスのダーリントン卿への信頼は揺るぎません。この会合とともに、彼の人生を分かつ出来事が同時に進行します。

ミスター・スティーブンス、少しお話ししたいことがあります(ミス・ケントン)
何ですかな、ミス・ケントン?(スティーブンス)

私の知合いのことです。今晩、私が会う相手ですわ
この方に結婚を申し込まれていますの。あなたには、そのことを知っておく権利があるだろうと思いまして

私はまだどうしようかと考えているところですけれど、でも、やはりこういうことはお伝えしておいたほうがよいと思いまして

よく教えてくれました。では今晩は楽しく過ごされますように

 愛の告白に他ならず、スティーブンスはこの会話が何を意味するのか知っていたはずです。今この時、ダーリントン・ホールではヨーロッパの運命を賭けた会合が始まっています。その歴史を左右する大事な時に、スティーブンスには主人を助ける義務(忠義)があり、ミス・ケントンの愛の告白など聞いている時ではない、ということです。もっとも執事に出る幕はありませんが、彼にしてみれば、外交を影で支えているという自負(あるいは誤解)があります。
 ミス・ケントンが屋敷にもどります。スティーブンスはワインを運ぶ途中、ミス・ケントンの部屋のドアに立ち止まります、

この瞬間、ドアの向こう側で、私から数ヤードのところで、ミス・ケントンが泣いているのだ、と。あの瞬間、もし私がドアをノックし、部屋に入っていたなら・・・

 彼はミス・ケントンが泣いていることを確信しているのですが、スティーブンスは立ち去ります。ドアをノックしていたら、ふたりの人生は変わっていたのか?...。

あの夜のどの一点をとりましても、私はみずからの「地位にふさわしい品格」を保ちつづけたと、これは自信をもって申し上げられます。



タグ:読書
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