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カズオ・イシグロ 日の名残り (2) (2001ハヤカワ文庫) [日記 (2020)]

日の名残り (ハヤカワepi文庫)続きです。
日の名残り
 ミス・ケントンを訪ねる旅は、彼女の部屋のドアの前にたたずんでいた、20年前の自分自身を取り戻す旅でもあります。ミス・ケントンがダーリントン・ホールに戻るという期待は外れます。彼女は自分の人生を振り返り、こう語ります、

私の人生はでも、そうは言っても、ときにみじめになる瞬間がないわけではありません。とてもみじめになって、私の人生はなんて大きな間違いだったことかしらと、そんなことを考えたりもします。そして、もしかしたら実現していたかもしれない別の人生を、よりよい人生を--たとえば、ミスター・スティーブンス、あなたといっしょの人生を考えたりするのですわ。
・・・結局、時計をあともどりさせることはできませんものね。架空のことをいつまでも考えつづけるわけにはいきません。人並の幸せはある、もしかしたら人並以上かもしれない。早くそのことに気づいて感謝すべきだったのですわ。

ミス・ケントンのこの言葉に、私はすぐに返事をしたとは思われません。聞いた言葉を噛み締めるのに一瞬を要しました。それに--おわかりいただけましょう--私の胸中にはある種の悲しみが喚起されておりました。いえ、いまさら隠す必要はありますまい。その瞬間、私の心は張り裂けんばかりに痛んでおりました

 20年前にミス・ケントンの部屋のドアの前に立ちすくんだ夜、「私はみずからの『地位にふさわしい品格』を保ちつづけた」と言い切ったスティーブンスは、後悔にホゾを噛みます。同時に「あなたといっしょの人生」というミス・ケントンの言葉に慰められます。ミス・ケントンは夫のもとに帰り、  スティーブンスは、ドーセットのウェイマスに出掛けます。桟橋で老人と出会い、戦後、ナチスに加担したと非難されるダーリントン卿の思いでを語ります、

卿は勇気のある方でした。人生で一つの道を選ばれました。それは過てる道でございましたが、しかし、卿はそれをご自分の意思でお選びになったのです。少なくとも、選ぶことをなさいました。しかし、私は……私はそれだけのこともしておりません。私は選ばずに、信じたのです。私は卿の賢明な判断を信じました。卿にお仕えした何十年という間、私は自分が価値あることをしていると信じていただけなのです。自分の意思で過ちをおかしたとさえ言えません。そんな私のどこに品格などがございましょうか?

 ダーリントン卿の道は自らの意思で選択した道だったが、自分は卿に仕えるだけで意思を持たなかったと振り返り、「品格」があると思いこんでいたのは過ちだったと悟ります。では、執事として新しい主人であるアメリカ人に如何に仕えればいいのか?。冗談の好きな主人を思い、

本腰を入れて、ジョークを研究すべき時期に来ているのかもしれません。人間どうしを温かさで結びつける鍵がジョークの中にあるとするなら、これは決して愚かしい行為と言えますまい。主人が執事に望む任務としても、ジョークは決して不合理なものではないように思えてまりました。

 スティーブンスは立ち直ります。桟橋で出会った老人の言葉が、小説の主題かも知れません、

人生、楽しまなくっちゃ。夕方が一日でいちばんいい時なんだ。脚を伸ばして、のんびりするのさ。夕方がいちばんいい。わしはそう思う。みなにも尋ねてごらんよ。夕方が一日でいちばんいい時間だって言うよ。

 ミス・ケントンと出会い、ウェイマスで夕刻の桟橋に至るくだりはこの小説のハイライトです。スティーブンスにもミス・ケントンにも、ダーリントン・ホールにも時代にも「夕方」があり、「夕方が一日でいちばんいい時間」だというです。人生の「夕方」は、後悔や思い出に生きるだけの時ではなく、希望も新たな出立もあるのです。
 人はそうやって老いを迎え、人生の日没を迎えようとする「夕方」に、「夕方が一日でいちばんいい時間」だと言えるかどうか...。
 引用ばかりで感想にもなっていませんが、「小説」を堪能しました。

 『緑の光線』という映画を連想します。太陽が沈む時に緑の光線が射す瞬間があり、緑の光線を見た人は幸せをつかむという言い伝えを信じて夕日に見入る、こちらは若い女性の話です。スティーブンス、ミス・ケントンもこの「緑の光線」を見たのでしょう(小説にはありませんが)。

 昨今のウィルス騒動でカミュの『ペスト』が増刷になったというニュースを読んで、70年前の小説が息吹(普遍性)を吹き返すという文学の力をあらためて思い知りました。感染症を引き起こすウィルスは、この小説が書かれた1947年どころか、何万年も前から人間の敵です。『日の名残り』はイギリスの芥川賞?ブッカー賞を受け、カズオ・イシグロはノーベル賞作家ですからポピュラーな本ですが、ある日、1989年のこの小説が彼方から突如として現れる、かも知れません。


タグ:読書
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Lee

先日BSで映画もやってましたね。地味なストーリーですが古き英国の慣習と真実の愛に揺れ動く様を繊細に描いていると改めて思いました。昨今の政治家のパフォーマンスよりこういうヨーロッパを味わいたいものです。
by Lee (2020-03-09 11:39) 

べっちゃん

映画より小説のほうが圧倒的に面白ですね。『わたしを離さないで』も読んでみます。
by べっちゃん (2020-03-09 17:10) 

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