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カズオ・イシグロ わたしを離さないで 第三部 (2008ハヤカワ文庫) [日記 (2020)]

わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫) わたしを離さないで [Blu-ray]続きです
提供者と介護人
 コテージを卒業すると、彼らクローンは提供者か介護人の道を選択します(他の選択肢は無い)。キャシーは回復センターで提供者を介護する介護人となり、へールシャム、コテージで共に暮らしたルースの介護人となります。ルースは、キャシーをキングスフィールドの回復センターにいるトミーとの面会に誘い、ヘールシャムの三角関係が復活します。
 3人で海岸に難破船を見に行き、提供によって「終了(死)」が迫っていることを知ったルースは罪を告白します。それはヘールシャムでキャシーとトミー仲を裂いたことだと言います。

カップルはあなたとトミーのはずだった。昔からわかってたのよ。許してなんて頼めることじゃない。だから、わたしが頼みたいのはそれじゃない。あなたたち二人に取り戻してほしいの。わたしがだめにしたものを取り戻してほしい
あなたとトミーでやってみて。提供を猶予してもらって。あなたたち二人なら、きっとチャンスがあると思う

ルースは、ポシブルを探しに行ったノーフォークでの、「愛し合っていて--それを証明できればそのカップルは提供を猶予され、数年いっしょに暮らすことができる」というあの噂話を持ち出し、マダムの住所を書いた紙片を渡します。キャシーはトミーの介護人となり、ヘールシャムの関係が復活します。

トミーは三度目の提供をしたばかりで、順調に回復してはいましたが、まだ十分な休養が必要でした。気になるそれを遠ざけておくため、わたしはあらゆることをしました。すべての抑制を取り払って、セックスに耽りました。
あのままの日々がずっとつづいていたら--おしゃべりをし、セックスをし、朗読し、絵を描く午後がつづいていたら--わたしたちは幸せだったかもしれません。でも、夏が終わろうとしていました。トミーが健康を取り戻すとともに、四度目の提供の通知が舞い込む可能性も無視できなくなりました。いつまでも待てない--わたしたちにはそれがわかっていました。

それとは、4度目の提供によって訪れる伴うかも知れない「終了」です。死を見据えたキャシーとトミーの生活は切ないです。キャシーとトミーは、提供を猶予してもらうためにリトルハンプトンのマダムに会いにゆきます。ふたりはそこで思わぬ人物、ヘールシャムの主任保護官だったエミリ先生に出会い、彼女はあっさり噂を否定し提供の猶予などは無いと言います。
 そしてヘールシャムの成り立ちと終焉を語って聞かせます。臓器提供を目的のため造られた「試験管の中の得体の知れない存在」クローンも、人道的で文化的な環境で育てれば、普通の人間と同じように感受性豊かで理知的な人間に育ちうる、それを証明するためにヘールシャムは作られたと言います。

わたしたちが作品を持っていったのは、あなた方の魂がそこに見えると思ったからです。言い直しましょうか。あなた方にも魂が--心が--あることが、そこに見えると思ったからです
なぜそんな証明が必要なのですか、先生。魂がないとでも、誰か思っていたのでしょうか

 一部の科学者がオリジナルより優れたクローンを生み出そうと計画し、普通の人間より優れた能力を持つ子供たちが生まれたら、いずれこの社会はそうした子供たちに乗っ取られる。それを恐れた人間はヘールシャムを閉鎖に追い込んだのだと言います。優れたクローンを文化的な生活で育てれば、彼らを目覚めさせるということです。

「追い風が吹くかに見えた時期もありましたが、それは去りました。世の中とは、ときにそうしたものです。受け入れなければね。人の考えや感情はあちらに行き、こちらに戻り、変わります。あなた方は、変化する流れの中のいまに生まれたということです」(エミリ先生)
「追い風か、逆風か。先生にはそれだけのことかもしれません」とわたしは言いました。でも、そこに生まれたわたしたちには人生の全部です(キャシー)

ヘールシャムとノーフォーク
 ...と、人間とクローンを軸に読んで来ましたが、実は違うんではないか?。クローンと臓器提供は背景に過ぎず、核心はもっとべつのところにあるのではないか?。keyは、キャシーとトミーが育ったヘールシャムです。最初から最後まで物語を貫いているのがヘールシャムです。

提供者の一人と話していて、記憶が 褪せて困るという不満を聞かされました。大事な大事な記憶なのに、驚くほど速く褪せてしまう……。でも、わたしにはわかりません。わたしの大切な記憶は、以前と少しも変わらず鮮明です。わたしはルースを失い、トミーを失いました。でも、二人の記憶を失うことは絶対にありません

ルースとトミーの記憶とは、ヘールシャムから続く記憶であり、3人を結びつけていたのもヘールシャムです。

いまでも、ときどき、元生徒がヘールシャムを──いえ、ヘールシャムがあった場所を──探し歩いているという話を聞きます。ヘールシャムの現状が噂になることもあります。ホテルになっている、学校だ、廃墟だ……。意識のどこかのレベルでは、わたしもヘールシャムを探しているのかもしれません。
静かな生活が始まったら、どこのセンターに送られるにせよ、わたしはヘールシャムもそこに運んでいきましょう。ヘールシャムはわたしの頭の中に安全にとどまり、誰にも奪われることはありません

 では、ヘールシャムとは何か?。楽園、トミーとキャシーは楽園を追われたアダムとイヴだと言ってしまっては身も蓋もありませんが、人間世界という俗世から隔てられ、創作よって魂を磨く生活を送ったへールシャムは間違いなく楽園です。その楽園でクローン「人間」たちに真実を教えたルーシー先生は、イヴに知恵の実を食べさせた蛇の如く追放されます。クローンである運命を背負い、その運命に抗うキャシーとトミー...これは現代の『失楽園』ではなかろうか?、そう思ってしまいます。

 もうひとつの重要な場所がノーフォーク。ヘールシャムの地理の授業で教師は、

静かないいところですが、見方によってはイギリスのロストコーナーとも言えます

と謎のようなことを言います。

ロストコーナーには二通りの意味があります。一つは「忘れられた土地」の意味で、先生が言おうとしたのはこちらです。そして、もう一つは……実はヘールシャムの四階にも「ロストコーナー」と呼ばれている場所がありました。遺失物置き場、つまりは落し物や忘れ物が保管される場所です。授業のあとで誰かがエミリ先生が言ったのもその意味だ、と言い出しました。「イギリスのロストコーナー」とは「イギリスの遺失物保管所」という意味で、国中の落し物は最終的にノーフォークに集められるのだ、というのです。

キャシー、ルース、トミーの3人がポシブルを探すのもノーフォークです。ポシブルは見つからなかったものの、キャシーはノーフォークのリサイクル・ショップで失くしたミュージックテープ『わたしを離さないで』を見付けます。また後に、ルースは介護人キャシーにこう言います、

何か大事なものをなくしてさ、探しても探しても見つからない。でも、絶望する必要はなかったわけよ。いつか大人になって、国中を自由に動き回れるようになったら、ノーフォークに行くぞ。あそこなら必ず見つかる、って……。ルースの言うとおりでしょう。ノーフォークはわたしたちの心の 拠り所でした。

トミーが使命を終えたと聞いてから二週間後、キャシーはノーフォークに行きます。

この場所こそ、子供の頃から失いつづけてきたすべてのものの打ち上げられる場所、と想像しましました。

 ノーフォークでキャシーはトミーの幻影を見ます。トミーという遺失物をロストコーナーで見つけたことになります。幻のトミーとは何を意味するのか?。人は大切なものを喪失することで代わりに何を得るのか?。作者が描いたのは、この喪失の物語だった思われます。

タグ:読書
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