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川村湊 妓生―「もの言う花」の文化誌(作品社 2001年) [日記 (2020)]

妓生(キーセン)―「もの言う花」の文化誌  『スカートの風』に「妓生(キーセン)」についての記述があり、興味をひかれて読んでみました。かなりマイナーな本です。タイトルの「もの言う花」は、妓生の研究書、李能和『朝鮮解語花史』(1927京城)の「解語花」の意訳ですが、けだし名訳!。 妓生とは、

朝鮮半島に於いて、諸外国からの使者や高官の歓待や宮中内の宴会などで楽技を披露したり、性的奉仕などをするために準備された奴婢の身分の女性。

甲午改革で法的には廃止されたが、後に民間の私娼宿(「キーセンハウス」など)の呼称として残存し、現在に至る。(wikipedis)

妓生の起源
 『朝鮮解語花史』によると、高麗時代に征服した百済の遺臣の女性を奴婢とし、美人を選抜して歌舞を習わせたものが「高麗女楽」、かつ「水尺(不尺、楊水尺)」などの賤民から選抜したものが加わり妓生のルーツとなったということの様です。李朝では、諸外国からの使者の接待したり、宮中内の宴会などで楽技を披露する「官奴婢」が存在し、これが妓生だといいます。奴婢を国が取り込んで妓生にしたんでしょう。奴婢を妓生に育てる学校(教坊)まであった様です。

 じゃぁ日本はどうなんだというわけで、大江匡房の『傀儡子記』『遊女記』に描かれる平安時代末期の遊女、「日本の妓生」?が語られます。『傀儡子記』には、水尺、楊水尺を思わせる記述があり、

傀儡子は定まった住居がなく、テントを持参して水草を追って移動してあるく。男は弓馬をつかって狩猟し、弄剣の技をみせ、木人を舞わし、手品をしてみせる。女は厚化粧して淫らな歌をうたう

とあり、傀儡女は遊女の別名だそうです。『遊女記』では、大阪淀川の河口には

水辺に民家が連なり、娼女が群をなして舟上で春をひさぐ。舟は水上に満ちて、水もないくらい。天下第一の歓楽境 があり 上は卿相より下は一般の庶民に至るまで、彼女らを愛好し、ついには妻妾にもする。・・・これら遊女を人々は神仙と名づけたりして、道長や頼通も愛寵した。後三条院行幸の時も舟を並べて歓迎したものである。

 道長や頼通はともかくとして、この傀儡子記』『遊女記』から、賤民・傀儡女=遊女=「日本の妓生」が導き出されます。この辺りは、淀川の砂州に「無縁の者」が住みつき市場が形成され、商人や傀儡子でなどで活況を呈したという『大阪アースダイバー』の記述を彷彿とさせます。

 高麗・李氏朝鮮時代の身分制度に七賤、李朝末期の七般公賤という身分制度があり、妓生(官妓・官卑)、内人(宮女女官、医女)、官奴婢、吏族(胥吏)、駅卒、 牢令(獄卒)、巫女などが含まれるといいます。妓生は歌い踊り、巫女もまた「クッ」というハライ(祓い)の儀式で歌舞を演じますから、両者は似た存在と想像されます。さらに妓生には医術や鍼灸、薬の調剤に携わる医女も存在しますから、「妓生」とは特殊技能を持った女性たちの総称だったようです。宮廷だけではなく地方でも両班の宴席には妓生が侍り、巫女が祓いの儀式を執り行い、朝鮮に淀川河口の盛り場があったかどうかは分かりませんが、庶民を相手とする妓生や巫女がいたことは想像できます。余談ですが、映画『哭声/コクソン』には巫堂による祓いの様子があり興味深いです。

貴族と妓生
 『朝鮮解語花史』には、忠烈王、忠粛王、成宗、燕山君など多くの王侯貴族と妓生の逸話が採録されています。

忠烈王五年、命じて州郡に妓・有色芸者を選び、教房に充つ。

成宗五年、王は宗廟に至り桓祖の神主及章順王后の神主を永寧殿に付す。還宮の時昔老、儒生、妓生等歌謡を献じ、百戯を陳す。百官賀箋を進む。

燕山君十年0諸道を大小邑に分け、皆に妓楽を設け、運平と号す。運平三百人を選

び、都城に入内させ、任士洪を以て採紅使と為す。

燕山君は、妓生は「泰平」を運んで来るという理由で「運平」という名称に変えさせた。そして奸臣・任士洪を「採紅使(あるいは探紅使)」という特別な官職に任命し、各地方、郡の美人の誉れの高い女性たちを、人妻だろうが、妾だろうが、一切構わずに強奪させ、「運上」するように命じた。宮中の女妓、医女、絃首はもちろんのこと、宰相、宗室、族親の妻妾など、手当たり次第であり、また、各郡の八歳から十二歳の容色の優れた女たちを「選上」させ、これと淫したという記録もある。「王色を漁す区別なし」と『李朝実録』には、さすがに呆れたように記している。

燕山君はさすがに悪政が祟り、宮廷クーデターで王位を追われたようです。

遥か後の世のことであるが、全国から美貌で健康な若い女性を選抜し、「喜び組」などという名称で、政府中枢のみの秘密パーティーを毎晩のように開き、そこで彼女らに歌と踊りを競演させ・・・たといわれる「金氏朝鮮」の二代目の首領・金正日は、こうした燕山君などの正統的な継承者といえるかもしれない。

 噂の「喜び組」は金正日氏の趣味だと思っていたのですが、李朝の伝統の継承だと考えると、なるほどと納得させられます(笑。ちなみに、妓生といえば平壌が本場だそうです。

大江匡房の生きていた時代、すなわち11世紀後半の日本の社会の状況を反映したものと考えられるが、同時代の高麗朝にも、また同じような状況が見られる。すなわち、高麗の中葉(12,3世紀)からは人々の間で愛妓を持つ者が有り、また「妓」をして妻妾と為す者も有った、というのである。貴官人も多くの「妓」を所有し、高麗朝末期に至るまで「狭妓之風」は盛行したというのだった。半島の向こう側と列島のこちら側で、人々は競って遊女や妓生を「哀憐」したのであり、彼女たちと「遊びをせん、戯れせん」(『梁塵秘抄』)としていたのである。

 日本にも、男装の遊女や子供が今様や朗詠を歌いながら舞った白拍子が存在します。平清盛の愛妾となった祇王仏御前源義経の愛妾となった静御前後鳥羽上皇の愛妾となった亀菊などがいますから、まぁ何処も同じ。後白河法皇の『梁塵秘抄』が登場しますが、『梁塵秘抄』は今様を集めた歌謡集。『梁塵秘抄』には巫女・遊女・白拍子が謡った歌が多く集められています。後白河法皇が遊女、白拍子と遊んでいたかは別として。

高麗女楽から始まるとされる朝鮮の妓生文化は、高麗朝や朝鮮朝(李朝)においても、その美や華麗さを讃えられ続けてきた。多くの貴顕や文人たちは、宴席でこぞって妓生たちに贈る詩文(時調と呼ばれる朝鮮特有の定型詩や漢詩)を書き、教養のある妓生たちは当意即妙にそれに応える詩を返した。高麗朝では、教坊(教房)という、後の妓生学校のように、妓生たちに歌舞を習わせる施設(組織)が作られた。仏教の盛んだった高麗朝から盛んに行われるようになった「八関燃灯会」や「探棚」などの行事の際に、彼女たちの優雅で妖艶な歌と踊りを、王侯貴族らが観覧して楽しんだのである。

 高麗朝、李朝では妓生パーティは盛んだったようです、妓生養成所まで設けて、宮廷の需要に耐えうる高級妓生を供給していたといいます。教養を積んだ妓生の中からは、朝鮮第一級の女流詩人・黄真伊など名妓が現れます。李朝において、遺された女性の歌(時調)や詩の作者はすべて妓生。女性の地位が極度に低い李朝においては、妓生でなければ歴史に残ることはなかったのでしょう。

妓生が、単に王侯貴族の慰み物ということだけではなく、政治的、政策的にも有効に使われたからである。前出の成宗の言葉にもあったように、辺境地区を守る将兵たちを慰撫するために、李王朝ではそうした周辺部に妓女たちを配置した。国境の豆満江に至るまでの六ヶ所の「鎮」や、女真族(満洲族)の出没する白頭山近辺の四ヶ所の「邑」に妓生を派遣して、将兵の衣服の繕いや酒食の相手や夜伽として侍らせた。大きな「鎮」には六十人もの妓生を置き、危険と不安と不聊と退屈とに悩む鎮護の将兵たちの慰安婦として彼女たちにサービスさせ、士気を鼓舞しようとしたのである。さらに、妓生は外交にも積極的に使われた。古くは貢女として中国へ貢ぎ物として「輸出」された。高麗時代には宋の使いに対して、着飾った妓生を配して接待させた。

妓生はまた「従軍慰安婦」として辺境に送られ外交にも利用され、性が国家の制度に組み込まれていたことが伺われます。
 李朝末期の「甲午改革」によって封建的身分制度は廃止され、奴婢、白丁ととも妓生も「解放」されます。「解放」されたといっても名目上のことで、社会制度が変わらない限り妓生の環境は何一つ変わらなかったと思われます。
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