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金完燮 親日派のための弁明 ① (草思社2002) [日記 (2020)]

親日派のための弁明  本書は、一言でいうと「日韓併合肯定論」です。韓国でこれを声高に述べると、生きていけません。著者も脅迫を受け、閔妃の子孫!から名誉毀損で訴えられ(そんなの可能なんですねぇ)、本書は韓国では「青少年有害図書」に指定され「19歳未満購読不可」と表示されたうえビニールで厳重に包装されているそうです。ビニ本ですw。そういう意味で、この記事は閲覧「注意」です。それでもいいという方は「続きを読む」からどうぞ。

 献辞がすごいです、
 金玉均(一八五一~一八九四)
 伊藤博文(一八四一~一九〇九)
 朝鮮の文明開化のために殉じた
 二人の霊前に本書を捧げる

 甲申事変を起こした金玉均はいいとしても、半日のシンボル安重根に暗殺された初代朝鮮統監の伊藤博文はまずいでしょうね。「青少年有害図書」になる筈です。

 三部構成で、「第1部 夜明けのアジア」では「日韓併合」の歴史的必然性と、併合が韓国の近代化と今日の繁栄をもたらしたことが検証され(これがメイン)、「第2部 相生(そうじょう)歴史」で、李氏朝鮮の前近代性と改革の挫折、日本帝国による朝鮮近代化が語られます。「第3部カミカゼの後裔たち」はappendixみたいなもので、「竹島」、「対韓請求権」、日本の政治家の「妄言」が放言が納められています。第1部には「大東亜共栄圏」礼賛まであり、これ本当に韓国の本?。よく出版できたものとおもいます。

日韓併合
 日韓併合は、普通「日本帝国が朝鮮を植民地支配した」というふうに理解されています。大陸侵攻の橋頭堡、朝鮮の資源や農産物の搾取など理由はいろいろ考えられます。植民地とは、宗主国にとって原材料の供給基地と工業製品の市場ですが、朝鮮半島は日本にとって植民地として魅力的な土地だったのかどうか。

 同じ植民地だった台湾に比べ、朝鮮で獲れるのは米と豆。温暖でサトウキビの穫れる台湾とは雲泥の差。植民地時代に北朝鮮に日本製鐵の製鉄所がありましたから、鉱物資源はありますが李朝による開発は絶無。植民地から一次産品を輸入し、工業製品を輸出するというのが植民地経営の基本とするなら、朝鮮に魅力のある一次産品は無くマーケットも存在しなかった、と考えられます。おまけに国民は儒教という原理主義によって縛られ、500年続いた王朝まで存在します。
 過去に「文禄・慶長の役」「征韓論」はありますが、前者は秀吉の誇大妄想、後者は、朝鮮半島を南下するロシアの緩衝地帯として想定したもので、植民地としての野心は無さそうです。著者は、朝鮮に植民地としての価値は乏しかったとし、日韓併合を、

ある人がソウルに住みながら、遠く離れたオーストラリアやニュージーランドに農場を所有していたとしてみよう。その人は現地に一定の投資をして収益をあげることだけに関心をもつだろう。しかし、自分の住まいであり職場でもある商店を経営する貧しい商人が、苦労して隣の店を購入することになったなら、その人は新しく手に入れた店を一所懸命改装し、すでにある店とあわせて相乗効果を得ようとするだろう。一九世紀末に台湾を、二〇世紀初めに朝鮮を併合した日本の立場は、まさにこのクモンカゲ(街角にある食品、飲料、日用品などを売る小さな個人商店)の主人のようなものだった。

と表現します。

 日本は、「内鮮一体」をかかげ、戸籍制度を設けて戸別調査、土地調査事業をやり、教育制度を設けて学校を建て、1930年代には重化学工業まで移植します。これは、隣接する店舗を買い取った店主が、前の持ち主(李朝とそれに続く大韓帝国)が荒れるにまかせた店舗を修繕し内装を整え設備を新調するようなものだと言います。

 では、日本は植民地として魅力のない朝鮮をなぜ併合したのか。『赤蝦夷風説考』が書かれた江戸時代より幕府はロシアの南下を恐れ、明治政府は、ロシアの南下を食い止める防御線として朝鮮に価値を見いだしています(島津斉彬?)。その朝鮮がロシアに接近すること(露館播遷など)は安全保障上の脅威です。朝鮮が近代国家として独立を維持できないなら、近代化を目指す勢力を後押して朝鮮を近代国家に変えるか、それが出来ないなら「併合」という選択肢しか無かったのでしょう。乱暴な話ですが19世紀末は帝国主義の時代だったのです。日韓併合が無かったら(日露戦争でロシアが勝つか引き分けていたら)、「露韓併合」があったのではないかと思います。太平洋に出たいロシアにとっても韓国は魅力のある土地だったわけです。

苛斂誅求
 李朝末期の朝鮮がどれほどの「あばら屋」だったかは、「第2部 相生の歴史」で詳しく述べられます。

苛斂誅求。刀を使って苛酷に取り立てるという意味のこの成句は、朝鮮末期の社会状況をもっとも生々しくあらわす言葉だ。とくに英祖[他]の時代以降、朝鮮社会は慶州金氏、安東金氏など特定の一族が政権をにぎって要職を独占し(勢道政治)、不正腐敗が熾烈をきわめた。

 皺寄せは民衆(農民)にゆきます。「三政の紊乱」です。収穫に対する税と土地に対する付加価値税(43種類あった!)田政のほか、兵役関する税・軍政、端境期に政府が農民に穀物を貸し与え、収穫期に高利で取り立てる還穀があり「三政」と言うそうです。「三政の紊乱」は地方役人よる不正収奪ですが、高宗も官職を競売にかけ科挙試験で賄賂を取り、閔妃(一族)は悪貨を鋳造してサヤを抜き、民衆はインフレで苦しむという絵に描いたような苛斂誅求。李朝末期の朝鮮は国中が汚職まみれで、もはや国家の体をなしていません。

このあたりは、イザベラ・バードの『朝鮮紀行』によると

朝鮮の災いのもとのひとつにこの両班つまり貴族という特権階級の存在がある・・・両班に求められるのは究極の無能さ加減である・・・非特権階級であり、年貢という重い負担をかけられているおびただしい数の民衆が、代価を払いもせずにその労働力を利用するばかりか、借金という名目のもとに無慈悲な取り立てを行う両班から過酷な圧迫を受けているのは疑いない。

 中央地方の役人、地主の多くはこの両班です。当然農民による「一揆」が続発します。その最大のものが全琫準率いる東学党を主体とした「甲午農民戦争(東学党の乱)1893」。全琫準は政府に「弊政改革十二条」をのませ、7ヶ月にわたって全羅道の行政権を握ります。著者はこれを「全羅道コミューン」と呼びます。収拾能力の無い李朝政府は、清に援軍を要請し、天津条約によって日本が派兵したことで日本vs.清の構図が生まれます。日本軍は景福宮クーデターによって高宗を幽閉、閔妃一族を追放して日本をバックとした金弘集内閣が生まれます(甲午改革)。著者は、ここから朝鮮のー近代化が始まったとします。この後、日清、日露戦争を経て1910年の日韓併合へ至るわけです。

資本主義萌芽論
朝鮮半島に生きていた民衆の立場からみるとき、日本は朝鮮王朝にとってかわった新たな統治者であったという、ただそれだけのことだ。人間以下の生活条件のなかで、一日一日命をつないで生きなければならなかった国民にとって、朝鮮王朝は消滅すべき存在だったが、権力を維持しようという既存の勢力は命がけで変化に抵抗した。これにたいして朝鮮の愛国者たちは、日本と協力して朝鮮王朝を倒し近代化をなしとげる道を選択したのだ。

大方の韓国人は朝鮮王朝に心情的な帰属意識をもっているが、歴史を評価するときには朝鮮王朝から一定の距離をおく必要がある。隠遁の王国だった朝鮮は500年間、外部世界とは石垣を積んで隔てられたまま偏狭な儒教思想に浸りきってきたが、時代の変化とともに新しい勢力に統治者の座を譲りわたしたとみなければならない。私たちは国を奪われたのではなく、日本という、よりましな統治者を受け入れたのである。これは明らかに進歩であり、朝鮮民衆の自然な選択だった。

日本と協力して朝鮮王朝を倒し近代化をなしとげる道を選択したよりましな統治者を受け入れた という表現には注釈が要ります。ひとつは、19世紀末の朝鮮には、自ら近代化に至る道が閉ざされていた、と言います。甲申政変を始めあらゆる改革の芽はすべて守旧勢力によって潰されています。
 さらに専制君主制の下で、朝鮮には近代化を起こすための要件、資本主義とその中核であるブルジョア階層が存在しなかったとします。従って朝鮮の近代化には、外の勢力を借りざる得なかったわけです。これに対し李朝末期には資本主義の萌芽が存在したが日本の植民地支配により芽が摘まれてしまったという「資本主義萌芽論」があります。米の研究者からは「オレンジの木からリンゴを求めるようなものだ」と皮肉られているそうです。これもイザベラ・バード『朝鮮紀行』の記述です、

ソウルをはじめ二、三の都市では大ざっぱな造りの荷車が見られるものの、農作物や商品の輸送手段は馬、人、牡牛で、積み荷は木製の荷鞍に載せて重さを均等にしたり、あるいは小さな物の場合、稾かごや網かごに入れる。

英国人イザベラ・バードによる見聞ですから偏見、でっちあげというわけにはいかないと思います。物流を支える荷車さえ無かった朝鮮に、資本主義の萌芽などは「オレンジの木からリンゴを求めるようなものだ」ったわけです。著者の結論は、

結局朝鮮の発展は日本によってのみ可能になる。すなわち、自力では近代化できない朝鮮がとりうる唯一の選択肢は、日本に同化する道だったということだ。

一進会
 もうひとつが、日韓併合を朝鮮の側から推進した「一進会」です。

私たち韓国人は歪曲された教育によって、しばしば乙巳条約(1905年の日韓保護条約)と韓日併合が日本の強圧によって締結されたと教えられるが、事実はこれとまったくちがう。日本と合併することだけが朝鮮の文明開化と近代化を達成する唯一かつ最善の方策であるという点については、当時朝鮮の改革勢力のあいだで暗黙の合意があったものと思われる。強力な世論に後押しされ、日本は合法的な手続きをふんで大韓帝国の統治権を接収したのである。

 一進会は、進歩会(東学党系)、独立協会、万民共同会などの開化派が大同団結した会員100万を擁する政治団体です。甲午農民戦争の中核・東学党と数々の改革、クーデターを企てた知識人の集合体で、ともに守旧勢力(高宗、閔妃、勢道勢力)を敵とする革命勢力です。一進会は、敵の敵は味方と、守旧勢力と敵対する日本と手を結びます。
 日露戦争では日本軍の鉄道工事や対露諜報に協力し、「日韓保護協定」に賛同声明を出し、伊藤博文が朝鮮統監として京城に入る際に南大門に「歓迎」の垂れ幕を掲げます。「バーグ密約事件」で高宗が退位し、朝鮮軍の反乱が起きると、一新会は銃をとって日本軍とともに市街戦を戦います。大韓帝国の反政府団体が、外国勢力と結託して国家に銃を向けるという反乱です。
 伊藤博文が安重根暗殺されると、一進会は100万会員の名で韓日合邦を要求する声明書を出します。朝鮮総督府は、一進会の力を恐れこれを解散させます。したがって、韓国の「国史」に一進会は登場しません。登場しても日帝の手先です。
 日韓併合は、李朝の無為無策と朝鮮改革勢力によってなされた、というのが著者の結論です。 続きます

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