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大島真寿美 渦 妹背山婦女庭訓 魂結び(文藝春秋2019) [日記 (2020)]

【第161回 直木賞受賞作】 渦 妹背山婦女庭訓 魂結び近松半二
「なんや、ついに書いてんのやな」
ふふ、と男が、硯(すずり)を見ながらかすかに笑う。
「まあな。いっぺん、きちっと書いて持って来てみ、って、そういわれたからには、そろそろ書かなあかんやろ、と、わしもいよいよ思ったというわけや」
・・・「ところがや。なんでか、書ける、って気しかせえへんのやな。だったら書かな、あかんやろ」
そう言って、男は視で墨をする。この男、半二という。

 第161回 直木賞受賞作です。舞台が道頓堀ですから、会話はすべて大阪弁。近松門左衛門と親しかった父親から門左衛門の硯を譲り受け、半人前が二人で一人前や、と自らを近松半二と名乗る人形浄瑠璃作者の物語です。半二に敬意を表し、二には及ばない「三」の字を付けた歌舞伎芝居の作者・正三(しょうざ)。半二と正三がそれぞれ浄瑠璃と歌舞伎の狂言作者としての腕を競い、歌舞伎が浄瑠璃を凌駕してゆ道頓堀の盛衰が描かれます。

 半二は、儒者・穂積以貫の次男で、浄瑠璃好きが高じて母親から家を叩き出され、竹本座で狂言作者の修行を積みます。ストーリーは、半二が『妹背山婦女庭訓』によって歌舞伎に押されていた浄瑠璃に隆盛を吹き込み、結局は歌舞伎に呑み込まれる物語です。ハイライトは、この『妹背山婦女庭訓』。この狂言は「大化の改新」がベースとなっていますが、四段目で三輪山麓の酒屋の娘お三輪が登場し狂言を引っ掻き回すそうです。このお三輪のモデルが、半二の兄の元許嫁・お末。お末は、長男に名家の娘を嫁に迎えたい母親によって穂積家を追い出され、恋仲だったお末と長男は仲を裂かれます。奈良に帰り造り酒屋に嫁いだお末が、後日半二を訪ね浄瑠璃見物をし、一時は駆け落ち、心中まで思い詰めたことを語ります、

それにしても、こんなふつうのおなごでも、いちどは駆け落ちやら心中やらを企てたりしたこともあったんやな、と思うと、半二は舞台の上の人形よりもお末という人間がなにやら薄気味悪くなってくる。他家に嫁いで、はや子もいるそうなのに未だに成し遂げられなかった心中にこだわりを見せるのも、半二には解せない。そんな厄介なものを後生大事に抱えて生きていけるものなのか。そのくせ、舞台のうえの心中に滑稽さが滲めば、はははは、とこだわりなく声をあげて笑っているのだから、屈託があるのやら、ないのやら、半二にはそれすらわからない。

あんたには一生わからへんかもしれへんな、・・・あのな、阿呆ぼん、教えたろか。いったんおなごがその気になったら、誰でも色男になってしまうんやで。ま、からくりみたいなもんやな。お末が含み笑いをしながら、半二に顔を近づけ、ささやく。

お末とお佐久
 お末がお三輪のモデルだとは一言ありませんが、お末の「からくりみたいなもんやな」の一言が半二の人生を決定づけていったわけでしょう。
 もう一人お佐久。道頓堀を追い出された半二は、京都四条の煮売り屋の二階で狂言作りに没頭します。この煮売り屋を手伝う後の半二の女房となるのがお佐久。15の歳で叔父の煮売り屋に女中に出され、店が繁盛し出すとお佐久無しでは回らなくなり、里に戻る話も嫁に行く話もうやむやとなり25の歳になるまで店を切り盛りしたきたらしい。

もうこうなったら、このまんま、当分ここで気楽に暮らさしてもろて、あと何年かして、泰助のところにお嫁さんでもきたら、そのときは出ていこか、思てます。探せば、うちひとりくらい、つこうてくれるところ、ありますやろ。ないならないで、いざとなったら里の山科へ戻って、近所の尼寺へでも入りますわ。

「尼さんになるんか」
「へえ。そうして死ぬまでお経唱えて暮らしますわ」

どこまで本気か、どこからでまかせかわからぬ調子で、火鉢に手をかざし、ふふふと笑うお佐久。痩せてはいるけれど、ぎすぎすしたところがなく、どこかしらふっくらした印象を抱せる。

 お末とお佐久、造り酒屋と煮売り屋をきびきびと切り盛りする様子も瓜二つ。半二はお佐久相手に狂言の想を練り道頓堀に帰り咲きます。『渦』の主人公は半二であり、正三が絡み父親・以貫、人形遣い文三郎など多彩な人物が登場しますが、この二人は影の主役です。

虚実皮膜
 もう一人、半二を「あほボン」と呼ぶ乳母のお熊。半二の母親・お絹の臨終の枕元で、お佐久が半二に渡した香をきこめた手拭いを嗅がせ、お絹に半二が器量よしで気立てのいい嫁を貰い竹本座に立作者になった「物語」を語ります。以貫は、

ええ物語やったで。お熊の拵えた物語は。でまかせにしては、ようでけてた。それに、お熊のやつ、存外、役者でな。あんまりうまいことしゃべりよるんで、わしまで、うっかり信じてしまいそうになったわ。

 戯作者・半二の物語を語るお熊もまた戯作者。この世は芝居、狂言や、というわけです。

芸といふものは実と虚うそとの皮膜の間にあるものなり、虚にして虚にあらず、実にして実にあらず、この間に慰が有たもの也(穂積以貫『難波土産』)

という近松の芸論〈虚実皮膜論〉を地でいってます。

 『妹背山婦女庭訓』ヒロインお三輪が突如ストーリーに乱入します。

いややわあ、半二はん!。 そうでっせ。私でっせ。
ここにいるのは、三輪です、三輪。私です。
四段目に入ると、可愛い娘はんらが、身を乗りだして、私を見つめてくれはる。がわかるんです。まるで、我が事のように、お三輪の定めを見つめてくれはる。
その娘はんらが一心にみつめてくれはりますのや。
目ぇきらきらさして、痛いくらいに強う、みつめてくれはる。
お三輪を。お三輪、 いうおなごを。

そうや。
お三輪は自分らと そうかわらへん町娘や。そのお三輪が、舞台で自分らにはでけへんことしてんのや。

お三輪を「痛いくらいに強う、みつめてくれはる」のは、 竹本座で半二と一緒に浄瑠璃を見たお末でありお佐久に他なりません。

おそらく客は、このよく知っているような気がしてならない、三輪の里の田舎娘、杉酒屋のお三輪に乗り移って、王朝時代ものの世界、蘇我入鹿の住む御殿へと誘われていくのである。お三輪には、悠々と時を超える力があったし、世界を切り裂く力があった。お三輪は客を乗せて運べる乗り物となれる人物なのだった。おい、お三輪、お前はたいしたやっちゃなあ。半二はお三輪に話しかける。

ところがです、お末はあっけなく死に、お佐久はヒット作の出ない半二を煮売りの商いで支えます。半二は今わの際に、

まあまあやな。わしの一生、まあまあやったけども、まあまあ、いうんは、あんがい、ええもんなんやで
半二の顔に笑みが広がる。
な、そやろ。ああ、そやけど、わし、もうちょとだけ、書いときたいんやけどなあ。あかんかなぁ。

 全編大阪弁の「語り」はなかなか新鮮です。

タグ:読書
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