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田川建三 イエスという男 ② イエスの歴史的場(1980三一書房) [日記 (2020)]

イエスという男 第二版 増補改訂ガラリヤ.jpg
第一章 逆説的反抗者の生と死
第二章 イエスの歴史的場
第三章 イエスの批判─ローマ帝国と政治支配者
第四章 イエスの批判─ユダヤ教支配体制に向けて
第五章 イエスの批判─社会的経済的構造に対して
第六章 宗教的熱狂と宗教批判との相克

イエスの歴史的場
 ではイエスとはどんな男だったのか。父親が大工だったことから、イエスも農具や漁具、具を作る大工だった想像されます。ガラリア湖が近いので、舟も作ったかも知れない。

ここから我々は、イエスの活動の幅を想像することができる。多くの家庭に比較的富裕な家庭にも、かなり貧困な家庭にも、仕事のために出入りしたであろうし、農民、漁民と生活の上で日常的に接触していた。彼が漁や湖上の舟行について、相当詳しい知識を持ちあわせていたことも、後世の伝説化した物語から知ることができる。

 イエスは、当時のガリラヤ地方で生活する庶民の中で生きています。仕事であちこちに行き、様々な人と会いその暮らしを見ます。その「大工のイエス」がどのように「ナザレのイエス」になったのか?。ともあれ、イエスの言葉はこの庶民の生活の場から発せられたことになります。きっとヘロデ王家とエルサレム神殿に税金を払っていたのでしょう。このローマとユダヤ教の支配、税金の話は、イエスを想像する重要な手掛かりだと著者はいいます。

 AD6年、パレスチナはローマ帝国の直接支配となります(それまではヘデロ王を通しての間接支配)。ローマは住民台帳を作り、住民から税金の徴収します。住民台帳を作るくらいですから、税の徴収は厳しかった筈です。ガリラヤのユダと呼ばれる男が、エルサレムで反ローマ抵抗運動を始めます。エホバを唯一神とし律法が生活の隅々までを支配するユダヤと、ユダヤを属州として支配するローマ帝国、という構図です。AD66年にはユダヤ戦争が勃発していますから、この時代、民衆は反ローマの風潮を共有していることになります。この抵抗運動はイエスとは直接関係しませんが、ローマ支配とユダヤの関係一端を示しています。

宗教家ではないガリラヤのユダのような人物が、かえって宗教的な運動を徹底して展開する。それは、徹底して展開される時には、「宗教」という観念空間にとどまることはせず、歴史的現実の全体に切りこむものとなる。神以外は支配者としては認めない、ということを本気になって主張し、行動するとすれば、いかなる政治権力をも容認しない、民衆の上に特定の階級が支配することを容認しない、徹底した運動となりうる。宗教がそのたてまえを実際にラディカルに遂行しようとすれば、 「宗教」の枠を根源的につき破る。

反ローマ抵抗運動に則して書かれたこの一文は、以外と本書の核心となっています。宗教や神をイデオロギーと置き換えれば、歴史の何時の時代にも当てはまりそうです。イエスの説く「宗教」も宗教の枠を突き破ったのか?。ついでに宗教のパラドクスが語られます。

(ガリラヤのユダの反ローマ抵抗運動は)一世紀全体を通じてのユダヤ人の果敢な独立運動に一般的にあてはまる。神以外には誰も支配者として認めない、という主張を、単純かつ強力に推進することは、素手で強大な支配者に立ち向う時には、歴史の根源をつく真理たりうる。けれども、自分達が何ほどか権力を持った時には、それではすまなくなる。自分達の力を民衆に向けて、これが神の支配だ、とせまることになる。

所々に現れるこいう脱線?が本書の魅力でもあります。

帝国の税金と神殿税
 ローマ帝国の人頭税は、ユダヤ、サマリア地方課せられ、ガラリアには及ばなかったようですが、ガラリアを支配していたのはヘロデ王家とユダヤ教のエルサレム神殿。 成年に達したガラリア人は(すべてのユダヤ人は)、毎年定まった額の神殿税を支払わさせられ、さらに全収穫物の1/10が神殿に献納されたといいます。これも人頭税のようなもの。外国に居住するユダヤ人にまで税を取り立てたというから驚きます。

ある意味では滑稽なことに、民族主義的な反口ーマ運動の拠点である神殿は、ローマ帝国の庇護のもとに集められる神殿税によって維持されたのである。エルサレム宗教貴族は、それでもって私腹と権力をふくらます。この神殿税に実質的かつ象徴的に現れているように、宗教的権力の社会支配は民衆に対する巨大な圧力であった。

ユダヤ人は、ローマとローマに癒着したユダヤ教(エルサレム宗教貴族)に二重に搾取されていたことになります。イエスの言葉、譬話(教え)は、ローマ支配とユダヤ教支配に向けたトゲ、毒が含まれており、それ故にイエスの説教は聴衆に支持されたといいます。

カイザルのものはカイザルに、神のものは神に マタイ22-21

これもイエスの有名な言葉。パリサイ派の律法学者がイエスに問います「ローマ皇帝に税金を払うことを、あなたは正しいとおもっているのか」。イエスはローマに払うコインを持ってこさせ、そこにカエサルの顔があることをネタに、こう言ったのです。キリスト教では、信仰と生活は別ものだと解釈されているそうですが、著者によると、

信仰を意味するわけではない。これは税金問題なのだ。「カイサルのもの」が帝国の税金ならば、「神のもの」は神殿税をはじめとして神殿に吸収される一切のものを意味する。イエスは、ローマ支配を批判しつつ、自分達の宗教的社会支配の勢力を温存させているエルサレムの宗教貴族や、民族主義者の律法学者に我慢がならなかったのだ。彼は、決して、反ローマ抵抗家の運動が「此世的」な運動だからというので、それを批判して、人々の眼を永遠の彼岸へと向けさせようとした、というのではない。そうではなく、民族主義者の語る「神の支配」が、王の権力や宗教貴族の圧力となって民衆を支配するものであることに、批判の刃を向けたのだ。
となります。福音書の記者の解釈も強引ですが、著者もかなりなもの。ともあれ、これがイエスを取り巻く1世紀のガラリアの姿です。で、話はカエサルと神の話となります。 →第三章へ

タグ:読書
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