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赤坂憲雄 ナウシカ考 風の谷の黙示録 ② (2019岩波書店) [日記 (2021)]

ナウシカ考 風の谷の黙示録 続きです。
蟲使い
 「蟲使い」は冒頭から最終巻まで登場しますから、重要なキャラクターだと考えられます。トルメキア軍の傭兵で、蟲を操り探索や占領地の警備を担当し、敗残兵の死体から金品を漁る特権を与えられ、「屍をこのんでまさぐる忌まわしきやつら」と蔑まれています。傭兵ですからトルメキア軍だけではなく土鬼軍にも雇われ、王蟲のクローン培養に手を貸しています。「森の人」と祖を同じくする表裏一体の存在で、清浄と穢の二元論を構成する重要なキャラクターです。
 「火の七日間」で文明が滅び、生き残った人類は旧世界の科学技術を継承したエフタル王国を建てます。エフタル王国に内乱が起こり 、人々は武器を求め、王蟲の甲皮から武具を作る武器商人が現れます。武器商人は組織的に王蟲を狩り、多くの王蟲が殺され、王蟲の暴走である「大海嘯」が起きてエフタルは滅びます。この後、エフタル人の一部が火を捨て腐海に入った森の人と蟲使い分岐したようです。

いまも腐海をさまよう蟲使いは、帰るべき国を自ら滅ぼした、呪われた武器商人の末裔

だといいます。森の人セルムはナウシカにこう語っているます。

蟲使いを 忌み嫌わな い で下さい 彼等は私達のカゲなのです。いや私達がカゲかもしれない、私の祖父と母は 蟲使いの出です。(コミック版6-98)

民俗学者である著者は、

もっともわかりやすい モデルは、日本中世に見られた天皇/非農業民のよじれた関係であろうか、鋳物師・木地師から遊女や非人にいたるまで、「職人」の名のもとにくくられ、土地に拠らず非農業的ななりわいに生きた人々が、しばしば天皇や皇子・皇女を祖と仰ぎ、みずからの職掌の特権的な由緒を説いたことを想い起こしてみたい。
アニメ映画『もののけ姫』には、まるで種明かしがなされるように、そうした中世的な聖/賤が織りなす世界が大切な道具立てとして摂りこまれていた。(p144)

 『ナウシカ』には日本的土俗が織り込まれているのかも知れません。トルメキア王国、土鬼諸候国、辺境国のベジテ市、風の谷の戦乱物語は、日本の戦国時代が下敷きになっていると想像します。「風の谷」は農業部族ですが、隣国のペジテ市は旧文明の科学技術を発掘する工業都市で、鉄砲を生産した堺を連想します。神聖皇帝と僧侶を戴き宗教的権威で成り立つ土鬼諸候国は、さしずめ石山本願寺を拠点とする浄土宗。神聖皇帝は蓮如?。爆弾を背負い敵に向かう自爆兵が登場します。著者は大東亜戦争の「特攻」を連想していますが、どちらかというと「南無阿弥陀仏」と唱えて信長陣営に斬り込んだ一向一揆の農民です。

 王蟲の皮革から武具を作る武器商人(蟲使いの祖)は、

われわれの中世から近世にかけて、動物の皮革が武具や防寒具として使われ、そのために特定の家畜や野生動物が狙われ、殺されてきた歴史がある。そこには、動物の屠畜にまつわる職掌ゆえに、厳しい差別を蒙ってきたエタと呼ばれる被差別の民が存在したことを忘れるわけにはいかない。蟲使いという穢れの民のイメージの造形にたいして、それがまったく無縁であったとは思えない。
やはり、『もののけ姫』のなかに、差別を蒙った非人やハンセン病の人々が生き生きと暮らす、アジール(聖域)のようなタタラ場が描かれていたことを想い起こさねばならない。そして、白い覆面の人々が製作していたのが、石火矢という、まさしく火を使う武器であったことも、偶然であったはずはない。(p145)

 土鬼のバイオ兵器・粘菌によって腐海は拡大し土鬼の領土と支配は後退します。腐海の拡大は蟲使いの活動領域を広げ、かつての支配者・土鬼に公然と反旗を翻します。蟲使いの集団の前に、ナウシカが上空(天)から現れたことで、蟲使いたちは、

化外の民と蔑まれたわが部族に光が届いた
神を持たぬ苦しみの日々に終わりがきた

ナウシカは解放の象徴、女神と映るわけです。宮崎駿の頭にはジャンヌ・ダルクのイメージがあったかも知れません。『ナウシカ』における蟲使いは「聖」「清浄」に対する「穢」の象徴。ナウシカは、ガンシップに乗り戦乱に加わって人を殺し、巨神兵も使います。セルムとの会話にもあるように、「こちらの世界」穢の住人です。そのナウシカが蟲使いの解放者になることは、自らの開放へと繋がります。
 シュワの墓所の主との対話(コミック版7-201)、

おまえにはみだらな闇のにおいがする、わたしは暗黒の中の唯一残された光だ(墓所の主)

清浄と汚濁こそ生命だ
ちがう、いのちは闇の中のまたたく光だ(ナウシカ)

この謂わば「神」とナウシカの対話は、

清浄/汚濁、それゆえ聖なるもの/穢れしものをともに、一身において引き受けるとき、人ははじめて穢れの呪縛を超えてゆくための、たしかな一歩を踏みだしているのではないか。ナウシカはただ、みずからの内に堆積する穢れに気づくことによって、  二元論の罠 からの脱出を果たすための戦いへと参入してゆくのである。
だから、宮崎駿はマンガ版『風の谷のナウシカ』の完結後に、『もののけ姫』を作らねばならなかったのである。(p157)

 『ナウシカ』では、火と水、清浄と汚濁など対立する概念が数多く語られます。物事をアッチとコッチに分ける二元論では何も解決しない、相反するものを壊すこと統合することが前に進む唯一の道だとナウシカは言います。清浄と汚濁こそ生命だというわけです。続きます。

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タグ:読書
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