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大平 裕 知っていますか、任那日本府 ② (2013PHP研究所) [日記 (2021)]

知っていますか、任那日本府 韓国がけっして教えない歴史個城.jpg
続きです。
倭・高句麗戦争
 『日本書紀』に、神功皇后の「三韓征伐」という日本と朝鮮との戦争が記されています。伝説だと思っていたのですが、広開土王碑、三国史記からもこれが史実であることが伺えます

・364年:倭兵が大挙して侵入してきた。(三国史記)
・391年:倭がこの年に海を渡り百済と新羅を臣民とする。(広開土王碑)
・393年:倭軍が侵入して金城を包囲した。(三国史記)
・399年:百済は高句麗との約を違え、倭を通じ平壌に来攻。一方、新羅より急便あり。倭人国境いに満つと。(広開土王碑)
・400年:新羅救援のため五万の兵を派遣。倭兵城中に満つ。倭兵を討つ。(広開土王碑)
・404年(甲辰)……倭、不軌(無法)にも帯方郡(黄海道)に侵入。(広開土王碑)
・405年”倭兵が侵入して明活城を攻めたが勝つことはできなかった。(三国史記)
・407年:五万の兵を率い(倭と)戦う。鎧卸一万余を残し敗走。(広開土王碑)
・413年:倭兵が侵入して明活城を包囲したが、得るところなく退却した。(『三国史記)
・444年:倭兵が一日間も金城を包囲し、食料が尽きたので引き揚げようとした。王はこれを追撃し、独山の東で合戦したが敗北した。(三国史記)
・459年:倭人が兵船百余艘を列ねて東海岸を襲撃し、さらに進んで月城を包囲した。(三国史記) (p35)

 著者は364年の侵攻が「三韓征伐」に当たると考えます。神功皇后」は伝説でしょうが、ヤマト王権成立間もない5世紀に日本が朝鮮半島に攻め入り、京城を超えて平壌付近に至ったというのです。何故海を越えて半島に攻め入ったのか?。おそらく鉄です。高句麗の南下で新羅・百済の権益を脅かされるヤマト王権が反撃に出た、ひょっとして高句麗の東北部に産する鉄鉱石を狙っていたのかもしれません。

 この倭・高句麗戦争は、侵略的日本民族の典型として反日の材料になりそうな戦争ですが、本書によると任那日本府とともに「韓国がけっして教えない歴史」だそうです。

 407年に 、高句麗は5万の兵を率いて倭と戦っています。ということは、日本軍(倭、新羅、百済の混成軍?)も相応な兵力だったと考えられます。戦争の度に本国から兵を送るわけはないので、半島の何処か、日本に近い半島南部で兵力を養い兵力を支える倭人がいたはずです。それはヤマト王権の出先機関などではなくヤマト王権そのものと言っていいでしょう。『魏志倭人伝』の「馬韓と弁辰が各々その南方で倭と接する」という「倭」です。

 倭の朝鮮半島進出は、考古学的裏付けがあります。全羅道北にある〈竹幕洞遺跡〉と、固城にある十数基の前方後円墳です。
 竹幕洞遺跡の出土物が沖ノ島(宗像大社)の出土物と酷似しているため、大陸への航海安全を祈った倭人による祭祀遺跡と考えられています。奴国、狗奴国などは、半島の西海岸伝いに北上し、中国に朝貢していますから、彼らが作ったものでしょう。7世紀の遣唐使はこのルートをとっています。

 固城にある十数基の前方後円墳から、この地は日本書紀が記す任那の地だといいます。前方後円墳は、ヤマト王権の権力の伸長とともに地方へ拡散してゆきますから、固城の古墳の作られた5~6世紀には、半島にはヤマト王権の権力が及んでいたことになります。ちなみに、これはヤバイと考えた韓国は、前方後円墳を削って3基の円墳に作り変えたそうですw。

任那日本府
 北九州、朝鮮南部が文化圏を形成してヒト、モノが往き来していた時代、倭と呼ばれていたこの地に、ヤマト王権が鉄を求めて割り込み、三韓(弁韓、馬韓、辰韓)の辺境を掠め取って任那伽倻地方を支配した。元々国というククリが曖昧な時代ですから、朝鮮族、ヤマト族の「二族共和」地区。その地に築いた、軍事・政治的拠点があったはずです。
 三国時代になると、倭は軍事力を背景に百済、新羅から朝貢を受けるようになり、5世紀には何度も朝鮮半島の奥深くまで攻め入っていますから、倭の根拠地〈任那加羅〉に、当然軍隊を統括する倭の出先機関「日本府」があったことでしょう。前方後円墳を作っていますから、この政庁を統べる長はヤマト王権の豪族と考えられます。大規模な墳墓を作るくらいですから、単なる出先機関ではなくこの地に根付いていたと想像されます。

 任那が歴史に登場するのは、5世紀初めに建てられた広開土王碑です。「十年庚子」(400年)に、高句麗は新羅を助けて倭と戦い、〈任那伽倻〉まで倭軍を追っていったという記述です。日本府という名称が登場するのは、日本書紀の雄略天皇8年(464)。新羅王は、新羅が高句麗の来襲を受けたので、使を任那王に出し「日本府の軍将」の救援を願い出たという記録です。
 広開土王碑、三国史と前方後円墳から朝鮮半島に倭は間違いなく存在し、倭があったなら半島経営、軍事的拠点の「日本府」があったと考える方が自然です。

 〈任那伽倻〉の国(部族)は、次々に高句麗の南下で追われた百済と、後に朝鮮を統一する新羅に組み込まれ、任那は562年に消滅します。なぜ倭は助けなかったのか?。任那四県を百済に割譲していますから、任那を中心とした半島経営から百済を使った外交に方針転換したのではないかと思います。高句麗と力をつけてきた新羅を敵に回して百済と任那の両方を援助するのは荷が重い?。百済の聖明王は、仏教を伝え五教博士を送って文化・技術を倭に提供していますから、任那を維持するよりも百済を通じて大陸の文物を取り入れ方がよいと考えたのかも知れません。白村江の戦い(663)、百済滅亡(660)による大量の渡来人から、倭と百済の濃密な関係がうかがえます。

 任那日本府はやはりあったのですね、長年の疑問が消えスッキリしました。

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