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石 平 朝鮮通信使の真実(2019ワック) [日記 (2021)]

朝鮮通信使の真実 江戸から現代まで続く侮日・反日の原点 (WAC BUNKO 313)  司馬遼太郎が『壱岐・対馬の道』(街道をゆく)で、『海游録』の著者で朝鮮通信使・申維翰と対馬藩の朝鮮接待役・雨森芳洲の交友を「朝鮮と日本の関係は、時に個人レベルでの友情も成立させ難いほどに難しい」と記したことを読んでから、朝鮮通信使は気になっていました。
 本書は、副題に「江戸から現代まで続く侮日・反日の原点」とありますから、バイアスのかかった本です。その辺りを勘定に入れればなかなか面白いです。

朝貢
 朝鮮通信使は室町時代からあったようで、江戸時代には1607~1811年の2百年間に12回来日しているそうです。教科書では朝鮮の友好使節だと習ったのですが、本書によると12回の朝鮮使節に対して幕府は一度も朝鮮に使節を送っていません。このことから、朝鮮通信使は「朝貢」使節だったいうのが本書の主張です。朝鮮と中国の冊封関係が朝鮮と日本にもあったとうのです。朝鮮通信使は、将軍の代替わりなど慶事を寿ぐ行事として実施されていますから、そう言ってもいいかも知れません。

 朝鮮通信使は、秀吉の朝鮮侵攻「慶長の役」の9年後の1607年に始まります。対朝鮮貿易を再開したい対馬藩と日本の脅威を取り除いておきたい朝鮮の思惑が一致したということらしいです。

 第5回通信の南龍翼はその著『扶桑録』で、朝鮮が日本に通信使を送る目的を、

朝鮮は『胡乱』(清の侵入)に遭いながらも、南辺の不安を憂慮したのであって、日本の武力を借りるつもりなど寸毫もなかった。・・・朝鮮が文化の恵みを施し、日本を教化すれば、いつかは日本も朝鮮を恭敬するであろう...

と書いています。つまり、南の日本は何時また攻めてくるかも分からないから、文化の恵みを施してこれを教導してやろう、というわけです。南辺の不安という本音が窺えます。通信使には、「製述官」という漢詩や朱子学に長じた文臣が参加しており、行く先々で日本人と詩文を交換し、朝鮮の文化的優位性を宣伝します。徳川幕府は通信使の来日を「朝貢」ととらえていたと思われますが、饗応ぶりは豪華でした。朝鮮は朝貢とは考えていませんが、通信使が将軍に拝謁する折に、主君に対する臣下の拝礼「四度半の礼」をしたそうですから、日本に臣従するという形をとっていたようです。

中華帝国を頂点とした当時の東アジアの「礼の秩序」においては、一刻の使節が外国君主に対して「四度半の礼」を行った場合、それは事実上、「朝貢の礼」となる。

大国である中国に比べて日本は小国であり、「小中華」を辞任する朝鮮にとって「四度半の礼」は屈辱以外のなにものでもありません。200年の通信使の歴史は屈辱の歴史だといいます。

侮日
 通信使に参加した文人は、申維翰『海游録』、金仁謙『日東壮遊歌』など多くの報告書=「東搓録」を著しています。通信使の要員は、科挙に合格した両班であり知識階級です。第三回通信使の姜弘重は『東搓録』で京大阪、江戸での見聞を「光彩が人を照らして心魂を眩乱」と称賛しています。一方で、

「通信使たちの多くは、日本の都市の雄麗さと市場の繁栄さや品々の豊富さに目を見張ったと同時に、お天道様はどうしてこんな蛮夷の国を優遇するのかと言って憤激の念を抑えきれない。日本に対する彼らの嫉妬がそこから生まれて、嫉妬はやがて攻撃性を生み、通信使たちの日本に対する攻撃に転じていくのである」(徐日東著『朝鮮通信使眼の日本イメージ』人民出版社)著者の孫引き

 コンプレックから日本の風俗、文化を蔑み貶め、景観まで貶します。蛮族の風俗だ、林羅山の文章は儒者としてなっていない、富士山も朝鮮の金剛山と比べると劣る、果ては「日本人は人柄が軽率で凶悪であり、女は生まれながら淫らである。その淫らな気風は禽獣と変わりがない。」「日本人は犲や貅の類ばかりである」云々。ちなみに貶める、貶すと、「貶」の文字は、本書にはれこそ100回は登場しますw。
 この延長線上に『海游録』の申維翰と対馬藩の雨森芳洲が登場したことになります。申維翰にとって雨森芳洲の人となりがどうのという以前に蔑むべき「日本人」だったわけです。これでは、儒者同士の交友など成り立つはずはありません。

 この「貶め」をもって、著者は朝鮮知識人の歪な精神構造を罵倒し、その侮日は400年経っても変わっていない、これからも変わらないだろうと言うのです。「江戸から現代まで続く侮日・反日の原点」というわけです。

 朝鮮通信使の日本侮蔑は、『海游録』などの公刊物(あるいは報告書)に記されたもので、読者として朝鮮の知識階級を意識した李朝の官僚としての意見です。おそらく、日本を賛美することはタブーだったのではないかと思われます。今日の「土着倭寇」みたいなものですw。

事大と小中華
 朝鮮については、「事大主義」がよく持ち出されます。これは

斉の宣王が「隣国と交わるためにはどうあるべきか」と孟子に聞いた。これに対して孟子は、「仁の心のある者 (仁者)だけが“大を以って小に事える(以大事小)ことができる。智ある者 (智者)だけが小を以って大に事える。(以小事大)ことができる」と答えた。

という『孟子』の思想から来ているそうです。つまり、事大主義は小国の大国に対する「阿り」ではなく小国の誇るべき「知恵」だというのです。知恵だというのは?ですが、半島という地政学上のハンディを克服する方便だったことは否めません。
 もう一つが「小中華主義」。中国を中心とする世界観では、中国から離れれば離れるほど文明から遠ざかり「夷狄」となります。朝鮮にとって、中国から離れた倭は蔑むべき夷狄です。おまけに、その中国には夷狄である女真族(清)が居座っていますから、朝鮮こそが残された中華世界の正統であるという誇りがあります。小中華の朝鮮は夷狄・日本に対しいては、常に上から目線となるわけです。その日本に朝貢しなくてならないわけですから通信使の侮日はよく分かります。

 韓国の侮日は根が深いようです。

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