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朝鮮日報が面白い(3) 俄館播遷 [日記 (2021)]

 バイデン政権が誕生し、米中間でコウモリ外交を繰り返す文在寅政権が面白いので、韓国の新聞を読んでいます。週刊誌的面白さでは中央日報ですが、朝鮮日報の皮肉を効かせた政権批判はなかなかです。「【寄稿】高宗播遷の道を再びたどるのか」という記事です。文在寅大統領がどこかの大使館に逃げ込む話ではありません(あるとすれば越境?)w。
 記事の趣旨は、米中間の緊張と綱引き、アジア版NATOのクワッドという緊迫した情勢下で、米中二面外交でいいのか?。それはまるで李朝末期の高宗の外交と同じじゃないか、高宗のロシア偏重外交で日韓併合という亡国の憂き目にあったではないか、という文政権への警告です。外交長官は訪中し国家安全担当首長は訪米しているわけですから、朝鮮日報でなくともこれでいいのかと言いたくなります。どう報じたかというと、

危機を克服する国と失敗する国を見定める最も重要な尺度は、結局のところ指導者の資質だ。大国に振り回され、大勢も読み取れず、脅威の本質を忘却し、右往左往していた暗君高宗の俄館播遷の道をたどっているのではないだろうか?

 俄館播遷(1896)は「露館播遷」とも呼ばれ、高宗が女装して?女官用の籠で景福宮からロシア公使館に逃げ込んだ事件です。当時の朝鮮は、宗主国である中国、イギリス、日本、ロシアが政治に干渉するという状況です。甲午農民戦争、閔妃暗殺事件(乙未事変)と多難な時期です。高宗は、前半生は父親・興宣大院君と后・閔妃に頭を抑えられ、重しが取れると事大主義に走り、挙げ句の果てに日韓併合で廃位させられます。1895年に閔妃暗殺事件がありましたから、観の危険を感じていたのも分かりますが、国王が外国公使館に逃亡するのですから国と国民に対する裏切りです。李承晩TVによると、逃亡は1896年に始まった話ではなく前後6度あったようです。これを年表化すると、

1882:壬午軍乱、日本公使館に亡命打診 →一応OK
1884:甲申政変 →独立党(急進開化派)によるクーデター
1885:露朝密約事件
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1894:甲午農民戦争、日清戦争 →アメリカ、イギリス公使館に亡命打診 →断られる
1895:閔妃暗殺、春生門事件(親露派によるクーデター)
1896:露館播遷(1897まで)
1897:大韓帝国成立、アメリカ公使館に亡命打診 →断られる
1898:毒茶事件(高宗暗殺未遂)
1902:第一次日英同盟
1904:日露戦争、第一次日韓協約(外交権喪失)、アメリカ、イギリス公使館に亡命打診→断られる(仏にも打診したらしい)
1905:第二次日英同盟、第二次日韓協約(保護国化)、ポーツマス条約、アメリカ公使館に亡命打診 →断られる
1907:バーグ密使事件(裏にロシアの影)、高宗退位、第三次日韓協約(韓国軍解体)
1909:伊藤博文暗殺
1910:日韓併合

 外交の失敗というより、近代国家に脱皮できなかった朝鮮が帝国主義に飲み込まれたということで、高宗に責任を負わせるのは気の毒なような気がします。で高宗はどんな人だったかというと、イザベラ・バードは、高宗の印象をこう記しています。

国王は背が低くて顔色が悪く、たしかに平凡な人で、・・・落ち着きがなく、両手をしきりにひきつらせていたが、その居ずまいやものごしに威厳がないというのではない。国王の面立ちは愛想がよく、その生来の人の好さはよく知られるところである。会話の途中、国王がことばにつまると王妃がよく助け船を出していた。・・・王家内部は分裂し、国王は心やさしく温和である分性格が弱く、人の言いなりだった。・・・その意志薄弱な性格は致命的である

なかなか辛辣です。

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