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李成市、宮嶋博史 『朝鮮史 1』① 朝鮮の前方後円墳墓(2017山川出版) [日記 (2021)]

朝鮮史 1: 先史-朝鮮王朝 (世界歴史大系)長鼓峰古墳.jpg
 韓国にも飽きてきたので朝鮮史です。
 『知っていますか、任那日本府』で、朝鮮半島の南端には倭という部族がいたといいます。教科書では、朝鮮半島南部に「任那の日本府」という半島経営の拠点があったと洗ったのですが、この倭がヤマト王権を指すのかイマイチよく分かりません。全羅南道海南に10数基の前方後円墳が存在することから、朝鮮南部に倭の支配が及んでいたのではないかといわれます。前方後円墳はやっぱりマズイだろうと、韓国では削ったり埋め戻したりで日本の痕跡を消しているようですw。で、どうなんだろうと本書を読んでみました。読んでみましたが、500頁を超える(1と2で1,000頁以上)専門書?で、素人には読み辛いです。で前方後円墳墓です。

栄山江流域の前方後円墳
 古墳は周囲に濠をめぐらした前方後円形をなすことが確かめられた。・・・段築と葺石の存在が確認された例もある。墳丘には、日本の普通円筒埴輪・朝顔形埴輪を相州とし、現地の土器製作技術で製作された円筒形土製品が樹立されていた場合が多い。・・・埋葬施設は、北部九州各地で築造された横穴式石室と類似したり、そこから変形したと思われる石室を用いた例が多い。さらに副葬品のなかには、須恵器をはじめとする日本列島起源の遺物が含まれている。こうした状況から、これらの古墳が、当時の日本列島との関係から出現・築造されたと広く考えられるようになった。(p83)

前方後円墳ではなく「前方後円形」の古墳というあたりが面白いです。

 ・建造時期は5世紀~6世紀前半
 ・周囲に堀をめぐらし、段築と葺石で築かれ、円筒形埴輪が並べられいた
 ・埋葬施設は、北他九州各地に見られる横穴式石室と類似している
 ・副葬品のなかに須恵器をはじめ日本列島起源の遺物が含まれる
 ・金銅製冠帽、外冠、飾靴など百済との関係を示す遺物もある
 ・頭部が銀で装飾した釘が出土し、百済系木棺が用いられた

このことから、栄山江流域の前方後円墳には、在地系の要素とともに百済系・倭系などの外来系の考古資料が混在して出土している、と。

 問題はこれらの古墳の被葬者が誰かということです。1)倭人説、2)在地首長説、3)百済に仕えた倭系百済官人説の3つ。百済人であれば百済風の墓を建てるだろうし、百済に仕えた倭人の墓が70mもの規模というのはちょっと無理があります。
 この地で倭の権力者が亡くなった場合を考えると、日本式の前方後円墳を造り細部において(木棺など)は在地の手法が取り入れられ、死者の遺品が副葬品として葬られるでしょう。百済王朝から贈られた金銅製冠帽があってもおかしくはありません。どう考えても倭の権力者の墓でしょうね。

被葬者をめぐる諸説は、さまざまな文化要素の一部だけに注目して解釈しようとした結果とみなすこともできる。そうではなく、考古資料にみる多様性を前提として、四~六世紀における東アジア世界の地域間交流において栄山江流域がはたした役割を評価していくなかで、この地域に前方後円墳が築造された意味を考えていく必要があるであろう。

と歯切れが悪いです。専門書ですから3説並立でしょうか。日本でも埋葬者が特定できる古墳はほとんどありませんから、被葬者論議の決着は着かないでしょう。沖ノ島祭祀遺跡と類似する「竹幕洞祭祀遺跡」(5世紀中頃~6世紀)についてもスルー、「任那日本府」の記述は皆無です。
 好太王碑の碑文や中国の史書『三国志』『宋書』、朝鮮の『三国史』には多くの「倭」が登場しますから、被葬者論議がどうあれ半島南部に「倭」が存在したことは疑いのない事実だと思います。疑問は、前方後円墳が倭の拠点があったと言われる任那、金海と離れた栄山江にあることです。竹幕洞祭祀遺跡と近いですから何か関係があるのかも知れません。
 忠清南道公州市(百済の古都)にある武寧王陵の棺が、日本固有種のコウヤマキ(高野槙)で造られているというのも面白いです。

追記 対馬の前方後円墳】
 対馬にも曽根古墳群出居古墳など数基の前方後円墳があるようです。ヤマト王権の約束手形?である前方後円墳が、九州北部 →対馬 →朝鮮半島へと拡散していったと考えたほうが理屈に合ってます。

【朝鮮史1】
【朝鮮史2】

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