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村井章介 中世倭人伝(4) 三浦の乱 (1993岩波新書) [日記 (2021)]

三浦の乱
 朝鮮政府が倭寇懐柔策として商館「三浦」を作ったところ、対馬から食い詰め者が移住して来て居留地は膨れ上がり近隣を巻き込んで「マージナル(境界)」が生まれた、そいう話でした。

四夷と通商するは、古えよりあり。且つ我が国緊要の物、皆倭国より来たる。互市すると雖も何の害かあらん。(成宗35甲申)

 朝鮮の輸入は、赤色染料の蘇木、胡椒以下のスパイス類、そして銅・鑞・硫黄・金などの鉱物が主な物で、とくに銅は、「銅鉄は民の欲するところであり、もし倭人がもってこなければ、国家の需要をみたせない」と「朝鮮王朝実録」にもあるように、重要な輸入品です。輸出品は綿布。綿布は朝鮮の代用貨幣であり、衣服として麻より暖かいので日本でも需要が高かったようです。輸入超過で支払う綿布が枯渇したという記述もあり、対日貿易は当時から赤字だったようです。「我が国緊要の物、皆倭国より来たる」は、2019年に輸出規制をかけた韓国の必需品レジストフッ化水素みたいなもので笑います。

 1470年代から全羅道を中心に再び海賊(倭寇)の活動が活発となり、朝鮮政府はこれを三浦の倭人と見做します。もともと倭寇は倭人、朝鮮人、中国人混在の存在です。これを三浦の倭人とする根拠ありませんが、近隣の朝鮮人やソウルの富商を巻き込んだ無秩序な膨張に手を焼いていた役人は、こいつらは三浦の奴等だ!。
 1508年三浦のひとつ浦の近くの加徳島で海賊事件が起きます。この取り調べ中に今度は全羅道の市吉島で朝鮮の船が倭船に襲われ、賊17人を捕えその首に三浦にさらし、浦の倭人数十名が朝鮮の役所に乱入します。1510年、齊浦・釜山浦の倭人たちは、対馬の宗盛順の援軍を得て大規模な暴動を起こし倭人抑圧政策の変更を迫ります。三浦の乱です。

 齊浦・釜山浦の役所を攻め落とし、齊浦の役人頭を捕虜にし釜山浦の役人頭を殺します。倭軍は熊川城(齊浦に隣接)を囲み熊川県監に降伏を求め、釜山浦から東萊城に迫って東萊県令に要求書を送り、付近の各所を略奪、巨済島でも水軍の基地に攻撃をくわえます。慶尚道都很帥(軍総指令官)は鎮定軍を送り、薺浦は陥落、倭軍は295名の戦死者を出して対馬へ撤退となります。

壬申約条
 三浦の倭人と対馬宗氏が引きおこした暴動は完全に裏目に出て、対馬は築いてきた居留地と朝鮮との間で保っていたすべての権益を失います。1512年の「壬申約条」(対馬・朝鮮の復交条約)で貿易は再開され再開されますが、交易は齊浦に限定され居留は不可となって倭人が築いた「三浦」は崩壊します。三浦とは何だったのか、

三浦には、朝鮮という異国のなかに食いこんだ日本中世社会という一面がある。倭風の家がたちならび、倭船が帆柱をならべ、倭語・倭服の人々が行き交う港町、というだけではない。・・・倭人の行動自体が中世を体現していた。かれらのエネルギッシュで、自由奔放で、論理を超えたふるまいは、国家機構の統制力が極端に弱い中世社会ではぐくまれたものだった(もっともこの「中世社会」は、日本人だけのものではなく朝鮮人も参加したわけですが)
 「壬申約条」で対馬からの通交は厳しく制限され、対馬島主・宗氏が朝鮮に派遣できる船の数は、年間50艘だったのが25艘に半減。島主には年間50艘以外にも特別な理由があれば随時船を送ることが認められていたのが、全廃。島主以外の島内の有力者にも船を送る権利が認められていたのが、これも全廃。経済を三浦に依存していた対馬宗氏は完全お手上げ状態となります。そこで考え出されたのが、「宗氏の船ではなく日本国王使の遣いと偽って交易船を仕立てる「日本国使臣」という抜け道。三浦の乱後の1511~1581年までの70年間に20回の「偽日本国使臣」が派遣されます。三浦の乱を境に日朝貿易は宗氏の独占となり、日朝貿易から締め出された人々は対馬・朝鮮ルートから東シナ海に活路を求め「後期倭寇」を形成することになります。

後期倭寇
 14~15世紀の倭寇は、大陸では元(モンゴル帝国)や朝鮮高麗朝の衰退(鎌倉幕府も?)など東アジアの政情不安がもたらした権力の空白に乗じた、主に倭人、朝鮮人からなる海賊です。その活動範囲は対馬と朝鮮南部を結ぶルートであり、倭人の商館、居留地も朝鮮南部に作られます。三浦の乱によって日朝貿易から締め出された16世紀以降の倭寇は、「環シナ海地域」に活動の場を移します。平戸、五島列島、琉球、台湾、福建省、浙江省、朝鮮半島に囲まれた東シナ海で、中国人が主役となって登場します。この倭寇の変質は、「三浦の乱」よって日朝の貿易が制限されたこと、明の衰退(1644滅亡)が関わっていると思われます。16世紀半ばに石見、生野の銀算出量が精錬法の発達によって飛躍的に伸び、この銀が明に流入して貨幣(一条鞭法)となり大陸・日本の貿易ルートに乗り、東シナ海を席巻します。明は海禁政策をとっていますから、銀は後期倭寇によって運ばれます。

これは交流そのものの衰退ではない。国家間関係を軸とする交流に代わって、非合法で、多民族的で、しばしば暴力をともない、そしておそらくはより大規模の、交流が登場してる。「後期倭寇」ということばで一括されている多様な海上勢力こそ、その交流のにない手にほかならない。たとえば五島や平戸や博多の倭人海商、たとえば王直を代表とする江南沿海地方の大海商、たとえばシナ海交易ルートに乗って、マラッカからマルク(モルッカ)諸島、広東、舟山諸島、琉球、そして九州へと進出してきたポルトガル勢力。かれらはみな、密貿易によって明の海禁体制を空洞化させ、<環シナ海地域>の一体性を成熟させていった人々である。密貿易こそ、この時期の交流のメインなかたちだった。

 後期倭寇で面白いのは、このルートにポルトガルが一枚噛んでいること。ポルトガルは、東南アジアの香料、ョーロッパの毛織物をもって、中国産の絹織物・生糸・陶磁器と交易し、日本の銀もこのルートに乗ります。1542年頃、ポルトガルの船がイスラム教徒の乗るジャンク船を襲って積み荷を略奪しますが、その積み荷は平戸から漳州に向かうジャンク船から奪った日本銀だったといいます(メン デス・ピントの『東洋遍歴記』)。倭、朝、中に加えてポルトガル、イスラムまで加わり、当時の東シナ海では、諸民族が入り乱れて海賊行為を働いていたことになります。
 1543年の鉄砲伝来、1549年のキリスト教の伝来も、この後期倭寇の文脈の中での出来事だといいます。この東シナ海の海賊横行を「倭寇的状況」と呼び、倭寇的状況は、

赤間関(下関市)・博多・平戸などの港市に、〈還シナ海地域〉に関するさまざまな情報が行き交っていたこと、情報の流れのかなめにいるのが、平戸に居を構えて二千人を超える党類をしたがえた王直であること、西北九州だけでなく、四国などより東方の倭人(朝鮮のいう「深処依」)も倭寇に加わり、王直はその情報をも掌握していたこと。〈環シナ海地域>の交流の主役は誰れであるか、倭寇的状況〉とはどんな相貌をもっていたかを、いきいきと語ってくいる・・・

 鉄砲やキリスト教の伝来も「マージナル(境界)」が深く関わっていた、という話です。(この項おしまい)

(1)マージナル、倭寇、(2)倭語・倭服、(3)異国の中世三浦、(4)三浦の乱、後期倭寇

タグ:読書
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