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伊集院静 ノボさん 小説 正岡子規と夏目漱石 (2013講談社) [日記 (2022)]

ノボさん(上) 小説 正岡子規と夏目漱石 (講談社文庫)  正岡常規、幼名升(のぼる)、通称ノボさん、正岡子規の評伝です。

ホトゝギス
 嵐山光三郎『素人庖丁記』の「死期の献立」に、正岡子規の『仰臥漫録』を読んで、鬼気迫る死期の献立に愕然とする話があります。本書にも、食いしん坊の子規の面目如実の姿がります。
 元々食いしん坊だった様ですが、宿痾となった結核が子規の食欲を刺激したようです(子規=ホトゝギス)。当時結核の特効薬は無く、栄養のあるものを食べ安静にしていることが唯一の治療法。母八重と妹律は、新聞「日本」から得る給与15円(後に40円)の多くを、子規の食費に当てた様です。

餓鬼も食へ 闇の夜中の 鱈(どじょう)汁
主病む 糸瓜の宿や 栗の飯

という句もそうした母と妹の賜物とすれば、子規が日本史に残した功績の幾分かは、八重と律に帰するのではないかと思われます。

子規の身体の中にはものごころついてから自分の目で見て、耳で聞いて、鼻で嗅いで、肌で感じた五感の凄まじい記憶があった。五感のひとつの味覚は横臥していても十分に味わえる。これはこの先驚くべき食欲となってあらわれる。

『仰臥漫録』に記された子規の旺盛な食欲は、最後に残った味覚のなせる業だったわけです。

 正岡子規と漱石は明治21年(1888)、第一高等中学校で同級生として出会います。子規と漱石という文豪が東京で出会い友情を結ぶという、現代の我々とっては奇跡の様な話です。知り合うきっかけは二人の寄席(落語)好き。小説ですから割引いて読むにしても、子規を中心に衛星のように廻る人物はきらびやか。漱石、鴎外、虚子、碧梧桐、陸羯南、中村不折(画家)と教科書に載る有名人がキラ星の如く登場します。
 子規の下には様々な人々が集まって来ます。子規が「ホトゝギス」を主宰し「歌よみに与ふる書」を陸羯南の新聞「日本」に連載して有名になってからは、寺田寅彦、伊藤左千夫、長塚節などが子規の下に集まってきます。子規が催す「蕪村忌」には、狭い根岸の子規庵に46人が集まったといいます。全部合わせても19畳という子規庵に46人です。
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 蕪村忌の記念写真(台東文化ガイドブック

訪問者が多いのは、勿論、子規の「訪ね来る者拒まず」という生来の性格もあった。そし誰かが訪ねて来ると、子規はそれを喜び、相手が望むことに応えようとする。俳句にしても、短歌にしても、それを持ち込まれ評して欲しいと言われれば丁寧に歌を読み、それに評を与える。人の句を見れば自分も創作したくなり、気が付けば夜が更けている。《ベーすぼーる》に誘われれば二つ返事で笑って立ち上がり、グラウンドに出れば中心になって球を追ってしまっている。寄席に行こうと言われれば、どこの寄席の演目が良かろうと歩き出している。

人柄が偲ばれます。子規は2002年に野球殿堂入りしているそうです。
 子規は新聞「日本」で俳句欄を作り古今の俳句を系統的にまとめた「俳諧大要」を連載し、「ホトゝギス」を主宰し、毎年「蕪村忌」を催しています。何故俳句なのか?。俳句には集まって催す句会や吟行があり、サロンを形成する文芸です。子規の「訪ね来る者拒まず」という性格に合っていたのでしょう。

漱石枕流
 子規と漱石です。

 一高で一番の秀才が、勉強嫌いで何かにつけて大袈裟に物事を断じる松山の田舎出身の若者にこれほどこころを傾けたのはやはり奇異なことと言える

一高の秀才と落ちこぼれ、生粋の江戸っ子と松山の田舎者はよほど馬が合ったようです。二人で寄席に行き、昼飯に鰻を食べ、食事代を漱石に払わせている辺りは笑います。漱石は、落第しそうな子規に勉強を教えたり、再試験のため教授と交渉までしているそうです。大学を辞めるという子規に、漱石のこんな句を送ります、

鳴くならば 満月になけ ほと> ぎす

同じ鳥になるなら、満月(卒業して文学士の称号を得ることと考えられる)にむかって鳴いた方がいいという思いを句に込めた。

 漱石という号は、元々沢山ある子規の号の一つだったようです。作者によると、

子規が己の高慢な性格に対してのいましめで,漱石"を自分の名前のひとつにしようとしたのと同様に、(夏目)金之助も自分の頑固で偏屈な性格に一番合った名前と考えたことが面白い。子規は「筆まかせ」の中で、"漱石、という名前は今、友人の仮の名前になっていると記している。それは金之助の「七草集」の評の中で初めて使われたからだ。(「七草集」とは子規の最初の詩文集)

 その後漱石が帰省している子規を松山の実家に訪ねたり、松山中学の教師となった漱石を今度は子規が訪ね、漱石の下宿で50日余り生活を共にするなど交流は続きます。五高教授として熊本に赴任した漱石は、病床にある子規を励ますために盛んに俳句を送り添削を受けています。ふたりの交流は漱石がロンドンに留学するまで続きます。
 子規は明治35年9月19日に亡くなります、享年34歳。碧梧桐と虚子は手紙で漱石にその旨を伝え、

漱石がこの手紙をクラパム・コモンの下宿で読んだのは十一月下旬だった。十一月三十日、漱石はすでに冬の寒さにおおわれたロンドンの下宿のストーブのそばに佇んで、五作の句を作った。「倫敦にて子規の訃を聞きて」と題しているから漱石はこの夜一晩亡き友をしのんで句作をした。
 手向くべき線香もなくて暮の秋
 きりぎりすの昔を忍び帰るべし

 1903年漱石はイギリスから帰国し、第一高等学校、東京帝国大学の講師となります。高浜虚子の勧めで1905年『猫』、1906年『坊っちゃん』『草枕』を「ホトゝギス」に発表し、その年の7月に教職を辞しお雇い小説家として朝日新聞に入社します。将来の帝国大学教授の職を蹴って新聞社に移ったわけです。この転身には、大学を辞めて新聞「日本」の記者となり、在野で俳句、短歌革新運動に論陣を張った子規の影響があったのかどうか。子規に文学士の道を捨てるなと諭した漱石は、文部省からの博士号授与を辞退しています。個人と国家の栄達が重なる、明治という時代に生きた二人男の生きざまです。
 『ミチクサ先生』という漱石の小説もあるので、読んでみます。

タグ:読書
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