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丸谷才一 輝く日の宮 ⑤(2003講談社) [日記 (2022)]

輝く日の宮 (講談社文庫) 1.jpg



 続きです、いよいよ「輝く日の宮」を消し去った犯人探しが始まります。

紫式部 と 藤原道長
 「輝く日の宮」があったとして、誰が何のために消し去ったのか。作者の紫式部が自ら消したということは、物語の整合性から考えられませんから、誰かが消したか、誰かの指示で自ら取り下げたわけです。

ここは除いたほうがよいと忠告……批評……した読者がゐて、その人の意見になかば納得して……(紫式部は)従つたのではないでせうか。

 犯人は藤原道長だ!、という推理が展開されます。紫式部と道長の関係というのは面白いです。

雇用主
 道長は、紫式部を始め和泉式部、赤染衛門、伊勢大輔など当代一流の才媛を娘・彰子(中宮)付きの女官として集めています。紫式部の父・藤原為時(漢詩を通じた友人)は道長のおかげで越前の国守になっているらしい。

召人(愛人)
 この時代は一夫多妻ですから、権力者は正妻の他何人も愛人(妾)を持つことができました。『尊卑分脈』には、「紫式部 是也源氏物語作者」「御堂関白道長」とあるそうです。『紫式部日記』に、誰かが忍んできて局の戸を叩いたが開けなかった、という記述があるそうで、これが道長です。戸を開けて貰えなかった道長は翌朝歌を送ります。

夜もすがら 水鶏(くいな) よりけになくなくぞ真木の戸口にたたきわびつる(何で戸を開けてくれなかったんだ!)

と歌を送り、紫式部は

ただならじとばかりたたく水鶏ゆゑ開けてはいかにくやしからまし(あなたの情にほだされて開けたら、恋をして後々悔んだことでしょう)

と返します。その後は戸を開く関係になったのでしょう。1008年、彰子が土御門殿(道長邸)に里帰りしている時の出来事です。角田文衛によると、この時道長44歳、紫式部は37歳だそうです。

懐妊した娘の周囲を自分の勢力下の者で固めたい、そのためにはしっかり者の女中に手をつけて置くに限る、といふ策略があつた。それにもう一つ、評判の物語の作者は道長の召人(妻妾に準ずる同居者)だとしきりに取り沙汰されてゐる様子なのに何もしないのでは男の沽券にかかはる...

和泉式部にも手をつけていた?まさか。和泉式部は30代半ばに道長の側近・藤原保昌と再婚しています、たぶん道長の紹介で。

読者
 紫式部は1005年頃に道長の娘・彰子の女官となります。作者(丸谷才一)の推理では、父親の藤原為時が『源氏』を道長に献上し、これ読んで道長は紫式部を彰子の女官に取り立てたと推理します。『源氏』は完成していませんから、見せたのはa系列の桐壺 、輝く日の宮、若紫 、紅葉賀 、花宴、葵、辺り。その後、賢木→少女のa系列を連載小説のように書き継ぎ、宮中の女房たちは争って読むわけです。当然第一番目の読者は道長、そしていつの間にやら「輝く日の宮」は消えた!。

批評家
 『御堂関白記』を著し漢詩が巧み、紫式部をデビューさせた道長は、一流の批評家、編集者でもあったと思われます。

いはば連載小説のやうにして読むわけですから、たぶん寝物語にいろいろ読後感を口にするでせうね。あそこの筋の引っくり返し方は見事だったとか、あの人物描写はおもしろいとか。あれのモデルは誰それぢやないかなんてことも言つたでせう。道長は和歌も上手でしたし、それに漢詩人としても優秀で、文学的教養の豊かな人でした。

(雑誌の編集者のように)ベッドで『源氏』を編集した、妄想ですがありそうな話。

題材の提供者
道長が過去の自分の女性体験とか、友達から聞いた体験談とか、あるいはさらに友達の体験と称して自分の体験を語るとか、さういふこともあつたでせう。

道長には正室の他5人の「妻」がいますから、女性経験は豊富だったのです。例えば、

素姓 の知れない娘と知り合つたときの綺譚が巧みに語られる。・・・女の住ひは 陋巷 にあつて、隣家の物音がうるさいし、瓦屋根でも 檜皮 葺きでもない板屋根の隙間から枕もとに月の光が洩れ落ちる。その 真直 な白い線のせいで、ふと、今宵は八月十五夜と気づき、長く打ち捨ててある荒れた別荘へ連れ立つて赴いたところ、その出さきで女に頓死されたといふ一部始終を詳しく語つたのだ。

「夕顔」ですね。これを寝物語で聞いた紫式部は、

これだけの材料を寝物語でせっかく手に入れたのに、それきりはふって置くのは勿体ない。これを取入れれば光源氏が段違ひに颯爽と歩きまはるし、喜劇的な趣も備はるので、いい男がいつそう魅力を増す。
(見てきた様な話)こうして「帚木」以下のb系列が誕生します。道長は光源氏のモデルともいえます。では何故「輝く日の宮」は消えたのか?。

(紫式部は)ひよっとすると道長は、光源氏と同じやうに帝の后を寝取つたことがあつて、それで「輝く日の宮」を破棄させたのではないかといふ疑惑。

「雨夜のしなさだめ」で源氏が黙っていたのと同じです。「帚木」で源氏と藤壷の関係が匂わされていますから、ちょっと弱いです。いずれにしろ、紫式部と道長が男女の関係にあったとするなら、道長は得がたい情報提供者だったことでしょう。

紙の提供者
 『源氏物語』は四百字の原稿用紙に直すと大体、千八百枚になるそうです。当時は一枚に二百字書いたらしく、『源氏』全体で三千六百枚必要だつた。それに写本の紙を足すと膨大な紙数となります。当時紙は貴重品(遣唐使の貢物にするほど貴重品)で貴族でも反古の裏を使っていたようです。紫式部の周りで、三千六百枚の紙を調達できる財力を持つ者は道長を置いては他にいません。紙の話は説得力があります。続きます

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