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丸谷才一 輝く日の宮 ⑥(2003講談社) [日記 (2022)]

輝く日の宮 (講談社文庫)
続きです。『源氏』の作者紫式部について考えてみます。

受領の娘
 紫式部の父親・藤原為時は、藤原家の傍流に生まれ、天皇に漢学を教える式部省の官僚です。歌人でもあり漢詩に長じ、藤原道長の催す漢詩の会のメンーバだった様です。式部省の後道長の推薦で越前守、越後守となった受領階級で、『後拾遺和歌集』『新古今和歌集』にも詩や歌が採用される文人です。紫式部は、この父親のもとで詩歌の教育を受けて育ったのでしょう。紫式部は受領階級の娘ということになります。

 受領の娘は成長すると、同階級の貴族と結婚するか、皇族や有力貴族に宮仕えします。彼女達が有力者の愛人となって男子を生めば、父親に出世の道が開かれるわけです。その典型が藤原道長で、娘・彰子が一条天皇の后となって男子を生んだことで(外戚)摂政となります。和泉式部も親王の愛人となって男子を生みますが、親王は早世しますから父親は受領止まり。和泉式部が敦道親王の愛人となれたのは美貌?と和歌。当時は妻問婚ですから、忍んでくる男性と歌の贈答があり、若い貴族の娘にとって歌は必須の教養。彼女達は、そのため古典を学び(本家取り)当意即妙に歌を詠めるように表現の訓練をします。和歌は彼らが階層を上昇する有力な手段です。これが受領階級の娘達が王朝文学の担い手となった要因でしょう。藤原道綱母、菅原孝標女、清少納言いずれも受領階級の娘です。

 紫式部は父為時とともに任地の越前に下ります。紫式部の生年は不明で970~978年と巾があり、為時が越前に行ったのが996年ですから18~26歳。便宜上、中をとって974年生まれとすれば22歳の時です。当時の男子の元服は12~15歳で、源氏は12歳で4歳年上の葵の上と結婚します。源氏は40歳で長寿の祝「四十賀」
を祝っていますから、当時の平均寿命は40~50歳?。紫式部は、20代半ばで999年に42~43歳の藤原宣孝と結婚します。19歳で結婚した和泉式部に比べるとずいぶん遅いです(再婚という説もあるそうです)。

源氏物語の成立
996(22歳頃):父為時、越前国守となり任地に同行
997(23歳):京に帰る
999(25歳):藤原宣孝と結婚
1000(26歳):長女賢子生まれる
1001(27歳):夫宣孝死去
 ↓ この間にa系執筆、為時が道長に『源氏』を見せる
1005(31歳):彰子の女房として出仕
1007(33歳):道長『源氏』流布させる
1008(34歳):道長と関係b系の執筆を始める、彰子懐妊
1010(36歳):この頃迄にa系+b系の『源氏』完成、『紫式部日記』を執筆
 『源氏物語』がどのように成立したのかは想像するほかありません。丸谷才一の想像では、父親の任地越前で物語の構想を得た、ということになっています。

 はじめての田舎 住 ひは佗しかつたらうし、北国の晩秋と冬は辛い。それに、うまく運ばなかつた縁談が心に傷を残してゐる。寂しさがつのつた。文才に富む娘が、花やかなものを空想し、豪奢なものに憧れるための条件が整つた。孤独や憂愁をそのままぢかに差出すのではなく、それを動力にして美しい世界、輝しいものを創造し、そのことの果てに悲しみや虚無を漂はせようとする方法を、都で生れ都で育つた娘は 鄙 にあつて模索してゐた。

 と想像するわけです。
 紫式部が道長の娘彰子の女房として出仕するのが1005年。道長が『源氏』を読んで紫式部を娘の女房に採用したとしたとすれば、1001年の宣孝死去から1005年の間に『源氏』は書き始められたことになります。離婚、再婚?、出産、夫との死別という人生の荒波に揉まれ、宮中の噂話をもとに『源氏』が執筆されます。a系が原初『源氏』、b系に道長の体験が反映されているすれば、b系は1008年以降に書かれたということになります。
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 紫式部は、父親と越前に行くまで京で育ちます。京では為時によって詩歌、古典を読む教育を受け、それなりの恋愛も経験している筈です。男が3日連続して通えば婚姻が成立する時代ですから、結婚をしたかも知れません。20代初めで父と共に越前に行き、華やかな都を懐かしんだ紫式部に『源氏』の構想が浮かんだとしても不思議はありません。式部省の官僚の家柄ですから、『伊勢物語』『竹取物語』『宇津保物語』あるいは『日本書紀』を読んでいたかも知れない。
 夫宣孝に死別し、徒然なるままに越前時代に構想した『源氏』を執筆します。これを読んだ為時は、漢詩仲間で時の権力・者道長に『源氏』を見せます。道長は紫式部の才能を見込んで娘彰子の女房取り立て、紙を与えて『源氏』を執筆させます。道長にとってのメリットは、『源氏』目当てに一条天皇が彰子の局に通って来ること。通って来れば彰子が皇太子を産む確率が上がり、道長は外戚として権力が振るえるわけです。

 1008年頃、道長と紫式部は男女の仲となり、道長は作家・紫式部の編集者として作品を批評し題材を提供します。寝物語で聞かされる道長の体験をもとにb系を執筆し、『源氏』の世評は高まります。1020年頃、『更級日記』の作者・菅原孝標娘は評判の『源氏』54帖を読んでいますから、その頃には写本として流布していたようです。
 『源氏』執筆と平行して、または脱稿後に『紫式部日記』を書きます。というのが、丸谷才一よる『源氏』の成立です。
 面白いので、もう一回だけ続きます。

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