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紫式部日記 ③ 若紫はさぶらう? (2009角川文庫) [日記 (2022)]

紫式部日記 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫) 1.jpg
続き
です。
五十日の祝い
御五十日は霜月のついたちの日。例の、人々のしたててまうのぼり集ひたる御前の有様、絵に描きたる物合の所にぞ、いとよう似て侍りし。

  1008年11月1日に土御門邸では、親王誕生50日を祝う宴会が催されます。女房たちが思い思いに着飾って集った様子は、「物合わせ」の絵の豪華さです。

宮の大夫、御簾のもとに参りて、
「上達部御前に召さむ」
と悔し給ふ。
「聞こしめし」
とあれば、殿よりはじめ奉りて皆参り給ふ。階の東の間を上にて、東の妻戸の前まで居給へり。女房、二重三重づつ居わたされたり。御簾どもを、その間にあたりて居給へる人々、寄りつつ巻き上げ給ふ。
大納言の君、宰相の君、小少将の君、宮の内侍と居給へり。

「宮の大夫」とは中宮付きの役人です。宮の大夫は、宴会に参加している道長を始めとした上達部(かんだちめ、貴族)を女性たちのいる対(建物)に呼び寄せます。上達部は別の部屋で飲んでいたのでしょう。彼らが来たので御簾を巻き上げると、着飾った彰子付きの女官(女房)、大納言の君、宰相の君、小少将の君、宮の内侍がずらりと居並び、男女入り乱れての酒宴となります。酔って几帳を引きちぎる者、女房の扇を取り上げる者、女房の裾や袖口を覗いて衣の枚数を勘定する者、宮の大夫は歌を歌いだし、と座は乱れます。

左衛門の督、「あなかしこ、このわたりに若紫やさぶらふとうかがひ給ふ。
源氏にかかるべき人も見え給はめに、かの上はまいていかでものし給はむと、聞き居たり。

酔っ払った左衛門の督(藤原公任)が「若紫はいるか?」と乱入します。「光源氏の様なイイ男がここにはいないのに、若紫が居るわけはない!」、紫式部は「ここに居ます」とは言わず無視、笑ってしまいます。1008年11月の時点で、『源氏物語』は衛門府の長官である藤原公任も読んでいたことになり、第5帖『若紫』までが公開されていたことになります。『源氏物語』は、

  996年頃:父親と共に越前に行った頃に構想
 1002年頃:夫藤原宣孝の死後に執筆開始
 1004年頃:父為時『源氏』を道長に献上
 1005年末:彰子に仕え、道長の支援で書き継ぐ
 1008年 :『若紫』までが写本として流布、天皇に献上するため『源氏』を製本

ということになります。

源氏物語を製本
 中宮彰子が宮中に帰ることになります。彰子は、源氏物語を天皇に献上するため紫式部に製本(写本)を命じ、道長は彼女のために紙、筆、墨、硯を用意します。

この本は、彼に「お土産です」といって渡される物ではなかったでしょう。研究者は、彰子が自分の手元に置いて「あなたのために作らせました。読みにいらっしゃいませんか」と天皇を誘う、そして二人で読み合うのだと推測しています。

『源氏』を読むために一条天皇が彰子の元に通えば、それだけ彰子が懐妊する確率が上がりますから、道長は応援したわけです。彰子は敦成親王に続いて翌年に敦良親王を産みますから、道長の思惑通り。紫式部をリクルートした成果です。続きます。


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