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山本淳子 枕草子のたくらみ ① (2017朝日新聞) [日記 (2022)]

枕草子のたくらみ 「春はあけぼの」に秘められた思い (朝日選書)
 平安時代の日記文学は本当におもしろい。『和泉式部日記』『紫式部日記』と読んだので、今度は日記じゃないですが『枕草子』。

紫式部 vs. 清少納言
清少納言こそ、したり顔にいみじう侍りける人(紫式部日記)

 『紫式部日記』で、紫式部は清少納言をクソミソ?に批判しています。これには裏があって、藤原道長の娘彰子に仕える紫式部は道長派、藤原道長の娘定子に仕える清少納言は反道長派という政治的背景があると思われます。彰子も定子も一条天皇の后ですから、継嗣をめぐる争いであり、天皇をめぐる父と娘の二重の三角関係。父親同士は兄弟ですから藤原北家の内紛でもあります。日記が書かれた1008年には、定子は故人であり、清少納言は内裏を去っていますから、何もそこまで書かなくてもいいのですが...。
道長相関図.jpg藤原道長 相関図
 清少納言(生年966頃)、紫式部(975頃)、和泉式部(978頃)の3人はよく似ています。いずれも受領階級の娘で、夫もまた受領階級。離婚または夫が亡くなり宮中に出仕して女房(女官)となります。彰子、定子など顕官の娘と女房たちのサロンから『和泉式部日記』『源氏物語』『枕草子』が生まれますから、受領階級の女性たちが王朝文学の担い手だったと言えます。

 清少納言の父親・清原元輔(周防守)は『後撰和歌集』の選者、曽祖父・清原深養父は『古今和歌集』の代表的歌人で、そうした歌人の家系故に清少納言は、定子の女房となったと思われます。紫式部も父親が『源氏物語』の草稿を原道長に献じ、それが縁で彰子の女房となります。彰子の女房には紫式部、和泉式部、赤染衛門、伊勢大輔がいますから、有力貴族は娘のために才媛をリクルートしたのかも知れません。才媛とは、和漢の教養かあって当意即妙に和歌の詠める才能を指します。

 父元輔が周防守(山口県)となり(974)、清少納言も同行したものと思われます。981年に橘則光(橘氏の家長家系)と結婚、翌年則長が生まれます。後に離婚して、一条天皇の中宮・定子の女房となりま。橘氏も清少納言の清原氏も奈良時代からの名家ですから、名家同士の縁組みといえます。

宮に初めて参りたるころ、ものの恥づかしきことの数知らず、涙も落ちぬべければ、夜々参りて、三尺の御几帳のうしろに候ふに、絵など取り出でて見せさせ給ふを、手にてもえさし出づまじうわりなし。
現代語訳:宮仕えした頃は、恥かしいことばかりでベソまでかきそうだったので、几帳のうしろに隠れていました。中宮様は、絵など取り出して私にお見せて下さる。私は手に取って見ることもできず、どうしたらいい分からない有り様でした。

 べそをかいていたとか、几帳の陰に隠れていたとか、後の清少納言からはちょっと想像できません。この頃27~28歳。紫式部も初めての宮仕えで落ち込んでいましたから、宮仕えは今も昔も大変だったようです。

清少納言と定子
 定子は摂政・藤原道隆の娘で、道隆が外戚を狙って送り込んだ娘。14歳で入台し一条天皇との仲も良好で3人の親王を生んでいます。「絵など取り出でて見せさせ給ふ」とあり、定子は初めての宮仕えでと惑う清少納言に気遣いを見せ優しい言葉までかけてくれます。定子17歳、清少納言28歳くらいですから、良くできた人物です。

 ある時、定子が「私が好きか?」と聞きます。「嫌いなんてこと絶対にありません」と返事をした時、御殿の台所の方から大きなクシャミの声がしたといいます。当時クシャミは悪い事の印だったそうで、定子は「まあ嫌だ。さては少納言、嘘をついたのね。もう結構よ」と奥へ入ってしまったというのです。追いかけて歌が届き、

いかにして いかに知らまし いつはりを 空にただすの 神なかりせば
(わからなかったでしょうね、あなたの嘘は。もしも、偽りをはっきり見極める天の神様がいなかったならば)

気の利いたことを言ってみなさい、という定子のイタズラです。清少納言は、

薄さ濃さ それにもよらぬ 鼻ゆゑに 憂さ身のほどを 見るぞわびしさ
(薄さ濃さ……中宮様を思う私の心の浅さ深さは、くしゃみとは関わりございません。だって「花」なら色の薄さ濃さがありますが、くしゃみは「鼻」ですから。だのに中宮様に、くしゃみで私の心を測られるなんて、つらくて悲しくてたまりません)

駄洒落で返したわけです。読みようによっては、私と中宮はこんな関係よ!、機知に富んだ歌も詠めるのよ!と云う清少納言の自慢話でもあるわけですが...。

 清少納言の父・元輔は歌人であるとともに「ものをかしく言ひて人笑はする」人物だったそうです。彼女の機知や巧妙な洒落はこの父親の血を引いているのではないかと著者は云います。

 定子後宮は、一大文化サロンを形成したと云います。著者によると、定子がこうした娘に育ったのは母である高階貴子の教育成果だと云います。貴子の父親(天皇家の教育係)は、娘の将来を考え、結婚相手を探す替わりに漢字漢籍を教え宮仕えさせます。貴子は内裏で内侍司に勤め、女官の管理職「掌侍」の地位に上り、藤原道隆の目にとまって玉の輿に乗ります。貴子は定子にも漢学の素養を身に付けさせ、その知性で一条天皇の愛妾から中宮、后となります。漢学の素養のあった清少納言ともウマが合ったわけです。
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タグ:読書
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